説教 「真理の霊の弁護とは」 大柴譲治牧師

ヨハネによる福音書 14:15-21

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

弁護者としての真理の霊

弱い立場に置かれた時、私たちは自分の側に立って味方してくれる者を求めます。幼い頃、自分でなかなか思うことを言葉にできず、気ばかり焦ってもどかしい思いをしたことがある人は少なくないと思われます。うまく自分の立場や意図や気持ちなどを説明ができなかったために誤解をされたり、ぬれぎぬを着せられたりして悔しい思いをしたことがあるのではないでしょうか。いじめっ子ににらまれた時、お兄ちゃんやお姉ちゃんが守ってくれた遠い記憶がある方もおられるかもしれません。

それだからこそ小さな頃には鉄腕アトムや鉄人28号やスーパーマンなど、またドラえもんなども別の意味ではそうでしょうが、正義の味方を主人公とした漫画やドラマなどが大好きであったような気がいたします。彼らはいつも弱い立場にある自分の側についてくれていたのです。そしてそれらヒーローたちのことを思い起こす時、私たちは自分の力がどんなに小さいものであっても勇気を与えられて、再び立ち上がって頑張ることができたように思います。

いつの頃からでしょうか。現実にはそのような助け手はいないのだという諦めにも似た気持ちを持つようになったのは・・・。齢を経るにつれて次第にそのような漫画やドラマをみなくなってしまいました。

本日の福音書の日課で主イエスは、父にお願いして特別な弁護者を私たちのもとに送ってくださると約束してくださっています。この方こそ「真理の霊」だというのです。この真理の聖霊の弁護とは何かということが本日の主題であります。

現実の不条理の中で

大変に無念な思いでこの世の生涯を閉じなければならないことが、現実には多々あります。9・11のテロ事件の際にもそうでした。昨年末に続いた大きな地震と津波などによる被害者の数の多さは私たちを暗澹たる思いにいたしましたし、先週尼崎で起こった列車脱線事故で一瞬にして100名を越える人々が命を奪われたということも私たちの心を深く抉りました。どうしてこのような悲劇が起こるのか。私たちは愛する者を失ったご遺族の悲嘆と遣り場のない怒りを思う時、言葉を失います。そしてどうしてこのような悲劇が起こったのか、現実の不条理に対して腹立たしい思いを抱きます。そしてそれは現実に対してだけではなく、それを支配しておられるであろう神に対して「なぜですか」と私たちは自らの憤りをぶつけようとしているのだということに気づくのです。天災も含めて、多くの場合には人間こそがその悲劇の責任を取るべきであるにも関わらず、その圧倒的に非人間的な不条理性のゆえに、私たちは人間を越えたところに向かって叫びを挙げるのだと思います。

そのような中で私たちは今日、神の真理の聖霊によって弁護をしてくださるという約束の言葉を聞いているのです。この主のみ言葉を私たちはこの現実の中でどのように受けとめてゆけばよいのでしょうか。

カインとアベル

私たちは、聖書がその最初から、弱い立場に置かれた者たちに神が優先的な選びを備えられていることを思い起こさせられます。自らを弁護することのできない者を神ご自身が弁護しておられるのです。

たとえば創世記の4章。アダムとエバから生まれた最初の人間カインは弟殺しの罪を犯してしまいます。弟のアベルをカッとなって怒りのゆえに殺してしまうのです。そのあたりを読んでみましょう。(創世記4:1-16を引用)

アベルの無念の叫びは地の中から神に聞かれました。神さまはカインに殺されたアベルのために弁護し、アベルのゆえにカインを裁かれるのです。しかし同時に神は、カインをエデンの東に追放するにあたって、カインが殺されることのないように(カインを守るために)しるしを付けられたことが記されています。我々はもしかするとカインの末裔なのかもしれません。そしてこの身にカインのしるしを帯びているのかもしれないのです。ここで確認しておきたいのは、神がアベルの声を聞き取られたということです。その時がいつであるかは私たちには隠されているのかもしれませんが、神は正しい者の声を必ず聞き上げてくださるということを私たちはこのカインとアベルの物語から受けとめてゆくことができるのだと思います。

そしてそこから私たちは、あのパウロがローマ書12章で引いている申命記32:35の「復讐するは我にあり」という言葉を思い起こします。パウロはこう語ります。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(申命記32:35)。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』(箴言25:21-22)。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:14-21)。主イエスご自身、山上の説教の中で、「復讐してはならない」とも「敵を愛しなさい」とも語られました。

真理の霊の弁護とは何か~愛の働き

そのように見てまいりますと、真理の霊の働きとは具体的には、敵を愛し、迫害する者のために祈るということではないかと思われます。換言すれば、悲しみと怒りと憎しみの中に孤立する者たちに連帯し、その閉ざされた心が開かれ、心と心がつながるように働きかけるということではないかと思うのです。聖霊は常に愛の息吹を私たちに吹き入れてくれるものだからです。

本日私たちは聖餐式に招かれています。現実の不条理の中で、悲しみの中で、私たちはこの主の食卓に招かれています。私たちのために、私たちに代わって、あの十字架の上に不条理をすべて引き受けてくださった主は、渡される前日の夜、パンを割き、弟子たちに与えて言われました。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。わたしの記念のためこれを行いなさい。」そして杯をも同じようにして言われました。「これはあなたの罪のために流すわたしの血における新しい契約である。わたしの記念のためこれを行いなさい」。主のからだと血に与るということは、主の苦難と死に与るということです。十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と執り成しの祈りを捧げられた主イエス・キリスト。

真理の霊の弁護とは、弁護者なる真理の霊とは、憎しみや復讐という怒りの連鎖の中にあって血で血を洗うような果てしのないおぞましい人間の現実を、愛と赦しによって造り変えてくださる働きであり、力なのであると信じます。

悲劇的な出来事の中で、人々が悲嘆と無力さとを共有し、手を取り合って支援活動を開始してゆくということ自体の中に、時間はかかったとしても再び勇気を抱いて踏み出してゆく力が与えられてゆくのだと思います。9・11のテロ事件の時にも、崩れ落ちようとする世界貿易センタービルへと人々を助けるために駆け登っていった警察や消防のレスキュー隊員たちの姿の中に私は天使たちの姿を見る思いがいたしますし、そのような尊い救援の輪の中に私たちは確かに今も生きて働きたもう復活の主の愛のみ手の働きを見てゆくことができるのではないかと思うのです。

願わくは悲しみ嘆きの中にある者たちの上に慰めと支えとがありますように。私たちを通して神がそのみ業を表してくださいますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 5月1日 復活後第五主日聖餐礼拝)