説教 「新しい愛の掟」 大柴 譲治

ヨハネ 13:31―35

「新しい掟」の新しさ

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)。この二つの戒めは旧約聖書で最も重要な戒めです。これはモーセの十戒の二枚の石の板をまとめたものです。それは人生において何が一番大切かということを示しています。

本日、主イエス・キリストは私たちに新しい、いわば「第三の戒め」を与えておられます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。この掟の新しさとはいったい何か。後半は「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めと同じ内容であるように思います。この戒めの新しさは、その前半部分にあります。「主イエス・キリストが私たちを愛してくださったように」というところに大きな強調点があるのです。

互いに愛し合わなければならないということは分かっていても、実際にどうすればよいのか分からないでいる(または、できないでいる)のが私たちの現実です。「キリストが私たちを愛してくださったように」という言葉は「倣うべき模範」とともに「力の源」を告げています。主の生き方の中に私たちはなすべき事柄が示されている。キリストに倣いて生きることが求められている。具体的になすべき行為は個々のケースによって異なりましょうが、私たちがどのような姿勢で、どのような志をもって生きるべきかは主の生き様の中に明確とされています。

洗足における主の愛

ヨハネ13章には、主が弟子たちの足を洗ったというユニークな洗足の記事が記されいます。主の具体的な愛がそこには示されている。主が私の足を洗ってくださった!当時これは奴隷の仕事であったことを思えば、さらに驚きが増します。主が、み子なる神が、私の僕として徹底して仕えるものとなってくださったのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。

足というのは私たちの身体のうちで最も汚れやすい部分です。それを自らの腕にとって主はていねいに洗ってくださった。まことにもったいない出来事であり、弟子たちにとっても生涯忘れられない出来事であったことでしょう。主は弟子たちの足を洗ったあとに言われました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。主が私たちの足を洗ってくださったように、私たちも互いに足を洗い合わなければならない」(13:12-15)。

「愛(アガペー)」とは好きとか嫌いとかいう感情ではありません。愛とは意志であり、相手に対して徹底して仕えてゆくという行為です。相手を好きになれと言っているのではない。愛しなさいとは相手に心から仕えてゆきなさいということです。また、これは愛の「勧め」ではなく愛の「戒め」であるということ、愛するように命じた言葉であるということも大切です。

これはまた、皆さんの多くが会社などで経験しておられるような、上司の命令を嫌々聞かなければならないということとも違います。私たちの現実はそのようなことばかりでフラストレーションがたまるばかりです。しかし主は違います。上司自ら率先して手本を示してくださった。足を洗うという自分を無にして相手に徹底的に仕える行為の中に、愛するということを具体的に示してくださったのです。そしてその延長線上には十字架が立っています。キリストの愛が他のどこよりも深く示されているのは、ゴルゴダの十字架の上においてでした。

私自身の洗足式

以前、聖木曜日にこの教会でも洗足を行ったことがあると聞きましたが、私もこれまでに一度だけ洗足式を行ったことがあります。それは1987年2月に市ヶ谷で開かれた本教会の常議員会の中で私が総会議長の就任式を司式した時のことでした。その前年の全国総会で総会議長に選ばれた前田貞一先生が、何を思われたか、その年に牧師になったばかりの、教師名簿の一番下に名前の載った私を議長就任式の司式者に指名されたのです。理念としては、一番上の者が教師名簿の一番下の者に就任式を執行してもらうという事で、教会に徹底して仕えてゆく姿勢を示そうというのです。理念に感銘を受けた私は二つ返事でお引き受けしました。礼拝学のご専門でもある前田先生よりご指名を受けたことは大きな喜びでもありました。すぐその場でインスピレーションが与えられましたので、臆することなく前田先生に申し上げました。「先生、一つご提案があります。実は就任式の中で洗足式を行いたいのですが、聖木曜日礼拝ではないのですが、それは可能でしょうか」と。今から思えばなんと大胆なことを申し上げたのかと思います。前田先生は少し戸惑われたようでしたが、しばらくの沈黙の後に「よいでしょう」とおっしゃっられました。

就任式では、私自身も初めてでしたのでどこか場違いなようなぎこちなさを伴ったと思いますが、礼拝の途中で靴下を脱いでたらいに足を入れ、てぬぐいを腰に下げてお互いの足を洗い合いました。そのときの不思議な感動は今でも私の中に響いています。私の深く尊敬するお方が、私のような者の足を洗ってくださっている!その身を徹底的に低くする謙虚さに私は圧倒される思いがいたしました。主に足を洗われた弟子たちの思いもそのようなものであったのではないか、そう思えてなりません。ちなみに私はそのとき以来、「総会議長の足を洗った男」としばらく呼ばれていました。後から、常議員たちが感想を述べてくれました。当時東海教区長であられた明比先生などは様々な思いが瞬時に去来したと言います。最初は、自分の足も洗われたらどうしようとハッとして一瞬困ったそうです。しかしそうではないことを知ってホッとし、続いて深い感銘を受けたとのことでした。目に見えるかたちで足を洗い合う姿に、キリストの弟子であることの恵みを味わうことができたように思うとのことでした。もちろん、洗足式に対しては肯定的なリアクションだけではありませんでしたが、それは私にとって生涯忘れることのできない体験でした。牧師になって既に13年目に入りましたが、私の依って立つべき原点として、神と人とに仕えてゆく原点として、今もなお深く心にとどめています。

主が「あなたがたに新しい戒めを与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられるとき、私はこの洗足の出来事を思い起こすのです。主が私の足を洗ってくださった。それだけではない。自分が隣人の足を洗うだけでなく、隣人に私の足をも洗っていただく。そのような交わりの中へと私たちは主によって招かれているということの幸いと喜びとを覚えるのです。