たより巻頭言「レント断想~ブルックナーとマーラー」 大柴 譲治

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18:13)

「ブルックナーは神を見たが、マーラーは神を見ようとした」。これはマーラーの弟子でもあった指揮者ブルーノ・ワルターの言葉である。アントン・ブルックナー〔1824~1896〕とグスタフ・マーラー〔1860~1911〕という対照的な作風を持った二人の偉大なオーストリア人作曲家の特質をよく言い表した言葉であると思う。

二人は師弟の関係にあった。ブルックナーは幼い頃からの敬虔なカトリック信徒であり、教会のオルガン奏者だった。作品はミサ曲などのほかに9曲の交響曲があり、いずれもオルガン的な響きを持ち規模壮大で重厚。それは彼自身の信仰をよく表していて、その音楽には揺れがない。それに対してマーラーは、ユダヤ教からカトリックに改宗した作曲家であり、生前は優れた指揮者としてヨーロッパ中に名をなした人物である。歌曲や9曲の交響曲、そして「大地の歌」など、その音楽は華麗なオーケストレーションと、美しい天上の響きがあるかと思うと次の瞬間には苦悩に充ちた不協和音があるというようにダイナミックな揺れ動きでよく知られている。先の「ブルックナーは神を見たが、マーラーは神を見ようとした」というワルターの言葉は、二人の音楽に対する深い共感に充ちた言葉であるが、言い得て妙である。マーラーは作曲家としては不遇な生涯を送ったが、「やがて必ず私の時代が来る」という預言的な言葉を残した。

北陸の古都・金沢で過ごした学生時代、数は多くはなかったが、私の周囲はブルックナー派とマーラー派とに二分されていた。圧倒的な神の栄光の存在感を示して動じることのないブルックナーの壮大な音楽と、信仰と疑いの間をダイナミックに揺れ動くアンビバレントな人間の現実に立ちつつ最後まで永遠なるものを求め続けたマーラーの音楽。私はなぜか後者に強く魅かれるのである。苦しみや悲しみという嵐の中で水に浮かんだ木の葉のように揺れ動く小さな人間存在。神殿から遠く離れた所に立ち、ただうつむいて、心痛む胸を打つ以外にはできない自分がいる。「キリエ、エレイソン」。これしか言葉にならない。

時はレント(四旬節)。典礼色は悔い改めを表す紫。主の十字架への歩みを想う40日間を過ごしたい。


(2005年2月号)