たより巻頭言「旅立ち」 大柴 譲治

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。これはヨブの言葉であるが、深い悲しみに充ちた言葉でもある。私たちは生まれる時も死ぬ時も「裸」である。何一つ持たなかったように何一つ持ってはゆけない。その意味で人は徹頭徹尾孤独な存在である。「咳をしても一人」(尾崎放哉)。生きることは寂しくも悲しい。

しかしこの「裸」という言葉は、「孤独」以上に深い「つながり(関係)」を表す言葉でもある。「母の胎」という言葉がそれをよく示している。母との「つながり」の中で私たちは生を受けた。私たちは太初から「関係的な存在」(「神のかたち」)として造られている。神とのつながり、自とのつながり、他とのつながり。私たちはそのような「つながり」の中に置かれ、生かされている。

引っ越し荷物を整理していると、つくづくそのような「つながり」を感じる。一つひとつの「もの」を手にしているとつい時間が経ってしまう。思い出が走馬灯のように次々と去来する。「もの」が私たちにとって宝物であるのは、その背後に他者との「つながり」があり、その「つながりの記憶」があるからだ。「もの」は単なる「物質」ではない。「もの」を捨てるのが辛いのは、「つながり」がそのことによって断ち切られると感じるからであろう。「もの」は「つながりの記憶」をよみがえらせてくれるという意味で「宝」なのである。しかしもし私たちが「心」にその「記憶」を刻むことができれば、「もの」は不要となる。そうすれば、「裸」となってももう大丈夫。「もの」でなく「つながり」と「その記憶」こそが本当の「宝」なのだから。愛こそが宝なのだ。

牧師館のリビングには手作りの大きな時計がかかっている。大木の切り株を用いて造られた特別な時計である。それは1983-84年、カナダでのインターン中に、一人の友が記念に心を込めて作ってくれたものである。この時計は、21年の時空を超えて、私に世界に二つとない(irreplaceable)「つながり」を想起させてくれる「私の宝」である。

私たちはこの世においては「旅人」であり「寄留者」である(1ペトロ2:11)。旅立つということは私たちに、そのような大切な「つながり」とその「記憶」とを再確認させてくれることなのだ。そのような旅人の視点から見直してみると、改めて、神とのつながりを第一とし、行き先を知らないで出発したアブラハムのすごさを思う。この時彼は75歳。

今は春。新しく旅立つ者たちの上に祝福あれ!


(2005年3月号)