説教 「羊飼いの声」 大柴譲治牧師

ヨハネによる福音書10:22-30

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

不思議な懐かしさを覚える歌声

母の胎内での胎児において聴覚がもっとも早く発達すること、そして死にゆく人においても聴覚が最後まで残ることは、先週の礼拝後にもたれた講演会『人生の終わりのケア』の中でキャロル・サック夫人が言及されていました。相手の声に耳を傾けるということ、そのことは人間のコミュニケーションにとってとても大切な事柄であるということを私たちは知っています。

サック夫人のハープと歌の演奏を聴いて、私は何かとても懐かしい声を久しぶりに聴いたような不思議な気持ちになりました。どこか遠い昔に聴いた覚えのある声であり、メロディーであるように聞えたのです。心の奥底に触れられて慰められ、平安が与えられるような気持ちでした。60人ほどが聴いておられましたが、それは他の方々も同じ気持ちであったでしょう。それは初めて聴いた歌(グレゴリオ聖歌のようなもの)でしたし、英語でしたから不思議でした。聴きながら思いました。私たちにはいつもどこか心の中で、私たちに呼びかける太初の懷かしい声を求めているのかもしれないと。それは私たちの魂に刻印された神さまの声なのかもしれません。創世記2章には「神は土のちりで人をかたちづくり、命の息をその鼻に吹き入れた。すると人は生きるものとなった」と記されていますが、むさしのだよりの3月号巻頭言に書かせていただいたように、もしかするとその時骨伝導で聴いた神さまの声を私たちの魂は記憶しているのかも知れません。

講演後の質疑応答の中で野口節子さんが、「それは私たちにとって子守歌のように響きました」とハッとするほど的確に表現してくださいました。そうなのです。私たちは遠い昔に、恐らくは母の背中でおぶられて聴いた子守歌を聴いていたのだと思いました。いや、もっと言えば、母の胎内で聴いた子守歌であったのかもしれません。その懷かしいメロディー、声の響き、抑揚とゆらぎ。私たちは皆、私たちの存在を呼びかける声の中に命を与えられていったのです。私たちはその声を確かにどこかに記憶しているのではないかと思います。だから耳を澄ますと聞えてくるのではないか。聞き分けることができるのではないか。そう思います。

羊飼いの声

本日の福音書の日課で、イエスさまはユダヤ人たちに対してこう言っています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と(ヨハネ10:27-28)。

自分の羊飼いの声を聞き分ける羊については、本日の福音書の日課の少し前の所、10:14- 16 でもこう語られています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

羊飼いと羊が声によって結び合わされているのです。羊飼いの声を信頼する羊。羊は目は近眼であり、反面音に大変敏感なのだそうです。羊飼いも自分のヒツジたちには一匹一匹名前を付けて呼びながら羊をまとめてゆくのだそうです。

人生の中での羊飼いの声

私たちの人生の中にも分岐点のような場面があります。どちらを選んだら良いか迷う場面があります。私たちはそのような時に主のみ心を祈り求めることが多いのですが、なかなかそこには主の声が聞えて来ないのです。全く声が聞えない場合がありましょうし、色々な声が聞えすぎてどれが羊飼いの声か分からない場合もありましょう。声を聞き逃すことに恐れと不安を感じるということもあります。羊飼いの声だと思って聴き従ったらそれは実は狼の声であったということになると目も当てられません。

私たちは人生の中で羊飼いの声を聴いた体験を持っています。だからこそ、私たちはここにまで導かれてきているのだと思います。それは直接イエスさまの声を聴くという体験かもしれませんし、聖書を通して聴くということかもしれませんし、間接的に牧師や宣教師や先輩の信仰者を通してイエスさまの声が届けられるということかもしれません。いずれにせよ、私たちは羊飼いの声によって導かれてきたのですし、これからも導かれてゆくのです。牧師となるためにも召命感というものが問われてゆきますが、それは主の召し出しの声をどこに聞くかということなのです。

イエスさまご自身も神さまの声によって支えられ、押し出されていったことが福音書には記されています。「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という詩編の言葉が本日の第一日課にありましたが、これは主がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、天が開けて聖霊が鳩のように降って声が聞えたという場面を想起させてくれます。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:9-11)。また、山上の変貌の出来事の中でも声が聞えます(「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」マルコ9:7)。これに加えて、ヨハネ12:28にはもう一度天からの声が記されています。「わたしは既に栄光を表した。再び栄光を現そう」。

婦人会のいとすぎグループでは今年はパウロについて学んでいますし、サフランもパウロについて学ぶことになっていると聞きました。パウロは直接イエスさまの声を繰り返し聴いた人でありました。たとえば、ダマスコ途上で迫害者から伝道者へ劇的な回心をする場面でイエスさまの声が響きます。「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。」(使徒言行録9:3-7)。

あるいは、2コリント12章の有名な肉体のトゲに苦しみつつこれを取り除いてくださいと一生懸命祈る場面でも、パウロは祈りに答えるイエスさまの声を聴いています。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12:8-10)。パウロにとって逆境の中で聞こえたキリストの声こそ、自身の存在を根底から義とする存在義認の声だったのです。

聖餐式への招きの声

私たちに向こう側から「汝よ」と呼びかけてくださるお方がいる。耳を澄ませば、そのお方の声が聞えてきます。私たちは本日、聖餐式に与ります。「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちに呼びかけてくださるこの羊飼いの声に信頼し、このお方にすべてを委ねて、今朝もご一緒にこの恵みの食卓に与りましょう。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな恵みがありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年5月2日 復活後第三主日聖餐礼拝説教)