説教 「羊飼いの声を聞き分ける」 大柴譲治

ヨハネによる福音書 10:22-30

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

声の力

「聖書は神さまからのラブレターである」と言ったのはキルケゴールでした。聖書はどのページを開いても”I love you”という神さまの声が聞こえてくる。ラブレターを書いた時の気持ち、もらった時の気持ちを思い起こしてください。それは確かに神さまからの呼びかけの声に満ちています。聖書は色々な読み方が可能でしょうが、神さまからのラブレターとして読んでゆくことが相応しい。そこから「汝よ」と私に向かって語りかけてこられる「永遠の汝」の熱い呼びかけの声を聴き取ってゆくことが大切なのだと思います。

本日の日課はヨハネ10:7-21に続く部分です。そこにはこうありました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(14-16節)。

本日は特に27節の「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」というみ言葉に焦点を当てたいと思います。パレスチナでは群れの羊には一匹一匹名前が付けられていて、羊飼いは羊の名を呼びながら群れを守るそうです。羊は極度の近眼のため羊飼いの声を聞いて安心し、その声に導かれて群れとして歩んでゆくのです。今日はどのような時にも私たちを守るためにその名を呼んでくださる「羊飼いの声」に焦点を合わせつつ、み言葉に思い巡らせてゆきたいと思います。

「誘惑のない人生なんかつまらない」!?

先週の飯能集会ではヤコブ書1章を学んだのですが、そこには試練と誘惑についての言葉がありました。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。

参加者のお一人の「誘惑のない人生なんて私にはつまらないわ」という発言に皆がハッとしました。確かにそういう面はあるだろうということで話の花が咲きました。なかなかエネルギーレベルの高い発言で、試練のただ中でそのように語るのは難しいでしょうが、とても正直な言葉だとも思いました。聖書を自分が納得できるように自分の腹で、「丹田で読む」ということは大切です。それらを分かち合うのが聖研の大きな楽しみでもあります。「なるほど!そういう読み方もあったか」。目からウロコの体験です。その意味で今、ベテル聖研もいとすぎも、水曜夕聖研も飯能集会も、聖書研究が面白い。

PGC開設25周年記念会に出席して

昨日(4月28日)、私はルーテル学院大学の人間成長とカウンセリング研究所(PGC)の開設25周年記念会で懐かしい方々と久しぶりにお会いしました。第一部の記念式典では清重先生や、本日の礼拝にもご出席のケネス・デール先生のご挨拶のお声を伺って嬉しく思いました。

続いて記念講演。岡山のノートルダム清心学園理事長の渡辺和子シスターから「日々の生活でもう一歩ふみだすために」というお話を伺いました。シスターは今年で80歳になられますが、まるで少女のようなその軽やかで透き通ったお声はまったくお歳を感じさせませんでした。9歳の時、昭和11年の2・26事件では、荻窪の自宅で当時教育総監であったお父様が46発の銃弾で射殺されるという痛ましい事件の目撃者でもあったのです。

実は、私は渡辺和子シスターのお声を以前に数回お聞きしたことがありました。最初は20年ほど前、牧師になりたての頃、福山での市民クリスマスにお招きすることになって、福山YMCAの担当者の友人と共に二人で倉敷(福山からは35キロほど東)のノートルダム清心女子大学学長室をお訪ねしたことがありました。その時にもシスターのストーリーテラーとしての独特の語り口が大変印象に残りました。

昨日のお話では特に、旧約学者の浅野順一先生の『ヨブ記註解』の「苦しみの中で心には穴が開く」という言葉をご紹介していただいたエピソードが心に残りました。ポッカリと開いた穴を通して新たに見えてくるものがあるというのです。自分の父親を目の前で殺された渡辺和子シスターの苦しみと悲しみの心の穴はどれほど大きなものであったことかと思います。

清重先生やデール先生、シスター渡辺のそれぞれ特徴的なお声に接して懐かしい思いにひたりながらも、私は今日の説教の主題である「羊飼いの声」について考えていました。声や語り口というものは生きてゆく上でとても大切で、声はその人の個性をよく表します。私たちの心の中には忘れることができない声がたくさんあるのだと思います。愛する者たちの声はいつまでも心の耳に響き続けているようです。デール先生ご夫妻の笑顔に接しそのお声を聞くと私たちがホッとするのも、やはりそのお人柄を思い起こすからでしょう。「声」は私たちの間にある関係というものを呼び覚まします。私たちに呼びかけてくる声は、私たちの大切なつながり、絆を思い起こさせてくれるのです。

羊飼いの声

私たちは直接、羊飼いイエスさまの声を聞いたことはありません。あのステンドグラスに描かれた羊飼いはどのようなお声なのでしょうか。やがて天のみ国に入ることが許された時に、そのお声を聞くことができることが楽しみでもあります。

「言葉」の持つ力、「声」の力というものを覚えます。赤ちゃんは胎内で自分に呼びかけてくる母親の声をかなり早い時期から聴き分けているようですし、母親の語りかけは乳幼児の情緒の発達において大切と言われています。物心ついた子供は絵本を繰り返し読んでもらうことが大好きです。それらは「声」の持つ大きな力を表していると思われます。私たちは向こうから呼びかけてくる存在によって自分が受容され、愛され、支えられると感じることを通して、私となるのです。人が神の似姿に造られているということは、そのような「永遠の汝」との応答関係の中に造られていることを意味します。

私たちは様々な人の言葉を覚えていますが、それらを想起する時には実はそれを告げてくれた懐かしい声をも同時に思い起こしているのではないでしょうか。私たちの両親や祖父母の声、家族の声、恩師の声、友の声、実際にはもう二度とこの地上では聞くことができない懐かしい声がたくさん私たちの心の中には刻み込まれているのだと思います。どれも忘れられない声であり、それらは私たちに生きることの大切さ、愛することの大切さを教えてくれた声です。そのような声が一つあればよい。一つでもそのような熱い声を思い出すことができれば、私たちはここに踏み止まって生きてゆくことができる。このことは私たちが生きる上でとても重要なことなのです。

終わりの日、羊飼いイエスさまの声を耳にする時に私たちが思うことは、それがとても懐かしい声に聴こえるのではないかと想像します。これまで人生の要所で何度も何度も私たちの名を呼んでくれた愛する者たちの声にそれは重なって聴こえるのではないかと。「羊飼いの声」とは実は、私たちが苦しみや悲しみを味わっている試練の時に、人生にポッカリと大きな穴が開いた時に、向こう側から聴こえてきて私たちをこれまで支えてくれた声なのです。マルティン・ブーバーは「個々の我と汝の出会いの延長線上に、永遠の汝が垣間見える」と言いましたが、実は私たちの羊飼いキリストは、親しい家族や恩師や友の声を通して私たち一人ひとりに向かって呼びかけて来て下さったのだと思います。そして私たちが自分自身を無にして、心を開き、耳を澄ませるとき、今も向こう側から私たちの羊飼いの声が聞こえてくるのです。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:27-30)。

そのような””I love you.”という私たちの羊飼いの呼びかけてくる懐かしい声を想起しながら、新しい一週間を過ごしてまいりましょう。お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますよう、お祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年4月29日 復活後第三主日礼拝)