説教「偽りの声、真実の声」 大柴譲治

ヨハネ福音書10:22-30

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

声の力

最近、私は「声」の持つ力といったものに思いを馳せています。声には確かに力があるのです。たとえばヨハネ福音書の冒頭部分の「言」という語を「声」と読み替えて見ると、もっと具体的に聖書のみ言葉が私たちの心に迫ってくるように思います。

「初めに声があった。声は神と共にあった。声は神であった。この声は、初めに神と共にあった。万物は声によって成った。成ったもので、声によらずに成ったものは何一つなかった。声の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:1-5)。

聖書は私たちに「神の言」を「声」を通して語りかけてくるのです。その「声」を「聴き分ける」ということの大切さを本日の福音書の日課において主イエスは、「羊飼いと羊の関係」をもって語りかけています。

イエスを拒絶するユダヤ人

本日の福音書の日課にはエルサレム神殿におけるユダヤ人とイエスの論争が記されています。そこでは「イエスとは誰か」という点が主題となっています。本当にイエスが、(旧約)聖書に預言されているような、神によって油注がれて特別な使命のために召し出された真の「メシア」であるのかどうかということがユダヤ人たちにとっては大問題だったのです。

◆ユダヤ人:「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
◇イエス:「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

ユダヤ人たちは実は最初から「イエスは偽メシアである」という前提をもって近づいているようです。ですから彼らは「わたしと父とは一つである」(30節)という主イエスの最後の言葉に、「イエスは自分を神と等しい者としている」と考えて「イエスが神を冒涜している証拠を得た」と結論づけ、31節以降ではイエスを石で打ち殺そうとするのです(本日の日課に続くヨハネ10:31-33を参照)。

ヨハネ10章の主題~羊飼いの声に聴き従う羊

実はヨハネ福音書の10章には主イエスの語られた羊飼いと羊の譬えがまとめられています。1-6節は「羊の囲い」のたとえが記されており、7節から10節は「羊の門」のたとえ、そして11節から18節は「よい羊飼い」であることが語られている。その中から「声」について言及されている部分を二箇所ほど抜粋してみます。

「(3)門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(4)自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。(5)しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

「(14)わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(15)それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(16)わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

興味深いことに福音書記者ヨハネは、イエスの言葉を巡ってユダヤ人の間に対立が生じたことも記しています(19-21節)。

「(19)この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。(20)多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』(21)ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」。

「羊の皮をかぶったオオカミ」をも

本日の日課にある主の言葉です:「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(26-27節)。私たちはこの言葉を聞くとドキッとします。イエスさまから「あなたはわたしの羊ではない」と言われているような気がするのです。それは私たちの中にどこかやましい気持ちがあるからでしょう。自分は果たして主イエスの声をキチンと聞き分けているだろうか、不徹底にしか主の声に聴き従っていないのではないかと思うのです。

私たちはどちらかというと自分は「反抗的な羊」「羊飼いの熱い思いに無頓着・無関心な羊」であり、羊としての弱さや臆病さを自覚せず、近視眼的に(羊は実際極度の近視だそうですが)自分のことばかり考えているために「迷子になりやすい羊」だと自覚しているのです。それだけならまだよいのですが、もしかすると「石をもってイエスを打ち殺そうとする羊(羊の皮をかぶったオオカミ)」であるのかもしれません。そう思うと私などは自分の心の中に確かにある「闇」にゾッとするのです。イエスさまの光に照らされると反対側に「影」が色濃くできてしまうことを感じるのです。

しかし主イエスは、他の場所と同様に、私たちのそのような心の闇をよくご存じの上で、私たちの名を呼んでくださる。失われた羊を見つけ出すまで徹底的に歩き回ってくださるお方なのです。

羊にはどうしても群れを守り導く羊飼いが必要です。私たちにも真の羊飼いが必要です。羊飼いがその羊たちに対して名前でもって呼びかけるその真実の「声」が羊たちに大きな安心感を与えるのです。しかし、イエス・キリストを信じない者はその声を聞いてもそれに従おうとはしません。その声を偽りの声として疑って拒絶する。そのような羊飼いを拒絶するオオカミのような羊のためにも主はあの十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と(ルカ23:34)。このような命を賭けた主の真実な愛の声が、その声を聴く者の魂を揺さぶり、その存在を根底から新たに造り変えてゆくのだと思います。真の愛は常に創造的です。

「シェマー、イスラエル!」

イエスさまの声を直接聞いたことのある人は私たちの中でも少ないだろうと思います。牧師であった私の父はある時私に、「自分は二度イエスさまとお会いしたことがある」と語ってくれたことがあります。夢か幻かは分かりません。しかし二度とも、主はマグダラのマリアと共におられたそうです。「なるほど、そのような不思議な体験があったからこそ聖書の御言を広めてゆく(ベテル聖研の)仕事にあれほど献身的になれたのか」と私にはストンと腑に落ちました。

パウロは何度か主の声を聴いています。使徒言行録9章によると、彼は「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という声を聴き、天からのまばゆい光に照らされて劇的な回心を遂げたことが報告されています。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答える声があったのです(9:4-5)。また2コリント12章には、「肉体のとげ」を取り除いてくださいと三度主に祈った時にパウロはやはり主イエスの声を直接聴いたと記されています。「わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり」という声を祈りに対する答えとして聴いたのです(12:9)。

私自身はこれまで直接イエスさまとお会いしたことはありませんしその声をお聴きしたこともありません。しかし思い起こしてみれば一度だけ、牧師になることを決心した時にその声が聞こえたような気がしたことがありました。釧路教会の合田俊二牧師がガンのために若くして亡くなられる直前に病床で、「オレはまだ死にたくない。やることが残っている!」と叫ばれたそうです。牧師になられてまだ3年、結婚されて半年、30歳の若さでした。その言葉を通して私は、「オマエがその仕事を引き継げ」という主の声を聴いたように思ったのです(1980年6月)。そしてその声はちょうど30年経った今も私の中で確かな声として響き続けているように思います。不思議な体験でした。

皆さんもおそらくそれに似た体験を持っておられることでしょう。何かの出来事、出会いや別れを通してキリストの声を聴くという体験を。復活の主が私たちの人生を横切り、私たちをここに招いてくださったのです。それは私たちに聖書のみ言葉を伝えてくれた信仰の先達たちの「声」であるかもしれません。二千年にわたって教会はそのようにしてキリストの声を聴き取り、受け継いできました。復活の主は私たちにそのようにして真実の声をもって語りかけてきてくださったのです。

旧約聖書の申命記6:4には「シェマー、イスラエル(聴け、イスラエルよ)!」という言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4-5)。

私たちは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神のみ声に聴くことが求められています。復活の主は今も私たちに聖書の御言を通して語りかけてくださっている。これはエマオ途上の弟子たちが復活の主によって聖書を解き明かされたときに、心が燃えていたと後から気づかされたことからも分かります。実は私たちもまた、これまで私たちに聖書を読んでくれた者の声、聖書の御言を解き明かしてくれた者の具体的な声を通して、私たちは主イエスの声を聴き取ってきたのだと思います。パウロもダマスコの回心の直後、復活の主によって遣わされたアナニアと出会うことによって目からうろこのようなものが落ちて目が再び見えるようになり、洗礼を受けたと記されています(9:17-18)。復活の主の声を確証させるために、信仰の導き手が具体的に遣わされているです。

私たち自身にもまた、私たちの羊飼いである復活の主キリストの生きた声を伝える役割が与えられています。かつては羊飼いの声を聞き分けることができなかった私たちが、羊飼いの声を信じ、それに従う者へと変えられてきた。これは本当に不思議なことであると思います。「あなたたちはわたしの羊ではない」と言われても仕方がないような私たちです。しかしそのような主に聴き従うことをしないでいた私たちを、主はその憐れみの御業によって、主の声を聞き分け、主に従う羊としてくださった。私たちはこの呼びかけてくるキリストの声によって今の自分があるのです。私たち一人ひとりの名前を呼び、私たちに真剣に関わってくださることを通して。

そして主は私たちは羊飼いの声として用いてくださいます。破れや弱さや疑いや矛盾をかかえたこのような私を主は用いられるのです。私たちに託された新しい使命(ミッション)です。それは本日の特別の祈りで次のように祈った通りです。「羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた全能の神さま。私たちを羊飼いとして送り出し、失われた人々、傷ついた人々に、みことばをもって仕える者としてください。あなたと聖霊と共にとこしえにただひとりの神であり、世の終わりまで生きて治められる御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。」

復活の主が今もなお私たちの羊飼いとして真剣に私たちに関わっていてくださることを覚えながら新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年4月25日 復活後第三主日説教)