「主よ、赦されない罪があるのですか?」  大柴 譲治

マルコによる福音書 3:20-30


<「イエスの身内」>
 イエスがガリラヤ湖の漁師町カファルナウムで宣教活動をした時の拠点となった「家」は、シモン・ペトロとアンデレの家でした(20節)。イエスの周囲にはいつも多くの「群衆」が集まっていました。そこに「イエスの身内」が登場します。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(21節)。マルコ6:3によれば「イエスの身内」とは、母マリアとイエスさまの兄弟たち(ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン)や姉妹たちのことでした。彼らにとって身内の一人がおかしくなっているのは大問題です。いつの世も家族問題には何かと悩まされます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」(22節)とありますから大変です。「ベルゼブル」とは「ハエの王」(列王記下1:2)を意味する言葉ですが、人々がイエスの力を理解できず、恐れていたことがよく分かります。彼らはイエスの行っていた業を「神の御業、聖霊の御業」と認めず「悪霊の御業」と見なしているのです。

 これに対して主ご自身は「イエスは汚れた霊(ベルゼブル/悪霊の頭)に取りつかれている」という批判を断固拒絶しています。23-27節は主の強い憤りが感じられる言葉ですが、28-29節が一番主の気持ちをよく表していましょう。「はっきり言っておく(アーメン、私は言う)。人の子ら(=人間)が犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。

 先週の日課(マルコ3:1-6)にも、安息日に会堂で片手の萎えた人を癒す主の姿が描かれていました。「真ん中に立ちなさい」と彼に命じたイエスは人々にこう問います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。「イエスを訴えようとする人々」が沈黙する中で、主イエスは「怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」、その人に「手を伸ばしなさい」と言われたのです。彼が萎えた手を伸ばすと手は元通りになっていました(5節)。神の聖霊の御業が眼の前で行われたにもかかわらず、それを認めようとしない彼らの「かたくなな心」を主は問題とし、怒りと悲しみを表しているのです。

<「主よ、本当に赦されない罪があるのですか?」>
 イエスが発せられた「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」という厳しい言葉を聞きますと、私には一つの疑問が浮かんできます。「疑問」と言うよりも「反発」と言った方がよいかもしれません。「主よ、本当に赦されない罪があるのでしょうか?」そのように私は問いたくなるのです。「どうしても納得できない」という思いから思わず出る「物言い」であり「疑問符」であり「反問」です。

 主の十字架はすべての罪を赦すためではなかったのか。本当に十字架によっても赦されない罪があるのか。私の中の「かたくなな心」が主に対して異を唱えるのです。一体そのような私は何者なのでしょうか。私はそのような権利を有しているのでしょうか。否!とんでもありません。分際を弁えない傲慢不遜と言うべきでありましょう。しかし私の中にはこだわりがあり、どうしても譲れない一線があるのです。しかしまさにそのような「私の傲慢さ」を打ち砕くために、主はこの厳しい言葉で私のかたくなな心を嘆き、突いておられるのだと思います。

<「地獄にもキリストはいる」(ルター)>
 マルティン・ルターの言葉です。「もしわたしが地獄(陰府)に落ちなければならないのならば、喜んで地獄に落ちよう。なぜなら地獄にもキリストはおられるのだから」。使徒信条で私たちは毎週こう告白します。御子キリストは、「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け、十字架に架けられ、死んで葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえられた」と。そうです、キリストは確かに「陰府(地獄)」にも降り立たれたのです。

 パウロもまた次のように言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:35-39)。キリストの愛から私たちを引き離す力を持つものは何も存在しません。そのような強力なキリストの愛が私たちを捉えて離さない。だから私たちは安心してジタバタしてよいのです。大丈夫!地獄にもキリストはいて下さるのですから。

<「キリストのこけん」(鈴木正久)>
 日本基督教団の議長として1966年に「戦争責任告白」を公にした鈴木正久という牧師がいます(西片町教会)。膵臓ガンのために1969年の7月に56歳で現職のまま天に召されました。鈴木牧師はあるテープ説教でこう言っています。「私のような者が救われるかどうかということですが、私のような者を救わなければ、それはキリストのこけんに関わるといわなければなりません」。実に味わい深い表現ですね。鈴木牧師もガン告知には大きなショックを受けられたようです。鈴木牧師の最後の著作である『主よ、み国をー主の祈りと説教』の前書きには、「主とそのみ国を望み見つつ」と題して、死の三週間前の日付で次のように正直に語っておられます。少し長くなりますが引用します。(以下は引用)

「やはり、この病院に入院した時にも、わたくしには、『あす』というのは、なおってそしてもう一度、今までの働きを続けることでした。そのことを前にして、明るい、命に満たされた『今日』というものが感ぜられたわけです。わたくしは教団の問題でも西片町教会の問題でも、あるいは自分の家庭の問題でも、いろいろその中で努力しなければならないと、こう思っておりましたけれども、でも教団の中からも西片町教会の中からも、自分の家庭の中からも、自分がスポッといなくなる、そういう解決というのか前進というのか、そのことだけはかつて念頭に浮かんだことがありませんでした。何か今までに劣らずいつも自分がその中で頑張ってしっかりやっていかなければならないような、そのために祈ったり、あるいは考えたりしているということがあたり前のような気持ちになっていたわけです。私にとっては、どう考えてみても自分自身がまあ死ぬというのか世を去るというのか、そういうことが恐ろしいと考えられたことは一度もない、というところかと思いますが、とにかくそう感ぜられません。ですから、怜子からこの病院の中である日、『実はお父さん、もうこういうわけで手のつくしようがないんだ』ということを聞いたときには、何かそれは本当に一つのショックのようでした。今言ったような意味でのショックだったわけです。


 そこでこんなことが起こりました。つまり今まで考えていた『あす』がなくなってしまったわけです。『あす』がないと『きょう』というものがなくなります。そして急になにやらその晩は二時間ほどですけれども暗い気持ちになりました。寝たのですけれども胸の上に何かまっ黒いものがこうのしかかってくるようなというのか、そういう気持ちでした。もちろん誰にも話せるわけではありません。・・・わたくしはその時祈ったわけです。今までそういうことは余りなかったのですけれど、ただ『天の父よ』というだけではなく、子どもの時自分の父親を呼んだように『天のお父さん、お父さん』、何回もそういうふうに言ってみたりもしました。それから、『キリストよ、聖霊よ、どうか私の魂に力を与えてください。そうして私の心に平安を与えてください』、そうしたらやがて眠れました。明け方までかなりよく静かに眠りました。そして目が覚めたらば不思議な力が心の中に与えられていました。もはやああいう恐怖がありませんでした。かえって、さっき言ったようにすべてがはっきりした、そういう明るさが戻ってきました。その時与えられた力とか明るさとかいうのはそれからもうあと一日もなくなりません。で、そういう意味においての根本的な悲しみとかうれいとかいうものも、もはやその日からあと感じません。ですから、わたくしにとってのショックというのは、とにかくそれを聞いた日の夕方から夜中の12時頃までの間だけであったわけです。・・・

 そしてこういうことが分かりました。さっき、病気になった初めには、もう一度この世にもどる、その『あす』というものを前提として『きょう』という日が生き生きと感ぜられるが、その『あす』がなくなると『きょう』もなくなっちゃって暗い気持ちになってくるということを申しましたが、ある夕方怜子にピリピ人への手紙を読んでもらっていたとき、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれてほかの信徒に語りかけているのを聞きました。聖書というものがこんなにいのちにあふれた力強いものだということを、わたくしは今までの生涯で初めて感じたくらいに今感じています。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。そうではなくてそれを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と、このように述べています。そしてそれが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです。わたくしはそのことが今まで頭の中では分かっていたはずなんですけれども、何か全く新しいことのように分かってきました。本当に明日というものが、地上でもう一度事務をするとか、遊びまわるとかいうことを超えて、しかも死をも越えて先に輝いているものである、その本当の明日というものがあるときに、きょうというものが今まで以上に生き生きとわたくしの目の前にあらわれてきました。先月号の月報に書いたよりももっと生き生きとです。・・・

 さてわたくしたちが天国へ行くかどうかということですが、わたくしは神のもと、キリストのもと、聖霊のもとへ行くことは当たり前のようなこととして今まで話してきました。その理由はこうです。それはわたくしが立派であるとかないとかいうことと全然関係がありません。おかしなことを言うならば、わたくしのようなものを天国に入れなかったら、キリストのこけんにかかわるじゃないか、とこういうわけだからです。主の恵み、憐れみのゆえにです。これは皆さんについても全く同じです。ですからわたくしも主のみ国で皆さんに会えることを心から信じて、その非常に大きな輝きの上で皆さんに会えることを期待しています。」(引用終わり)




 これは鈴木正久牧師による、死の向こう側にある「キリストの日」を視野に入れた告別説教です。私たちの心に強く響きます。私たちもまた、私たちのために十字架に架かり、すべてを与えて下さった「キリストのこけん」に信頼して、すべてを託してゆきたいと思います。もし赦されない罪があるとすれば私たちが天国に入ることができないこともあるということで、それこそ「キリストのこけん」に関わる事柄であろうかと思います。主は命を賭して私たちをそこに招いてくださったのです。

 本日これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約」と言って私たちにパンとブドウ酒を差し出してくださるキリストの招きにご一緒に与りましょう。

お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますようお祈りいたします。アーメン。

(2015年7月5日 聖霊降臨後第6主日)