祈りと絆の島にて~村治佳織 長崎・五島の教会を行く~(B S N H K)を見て  猿田幸雄 

小さな島々とその美しい入り江が独特の景観を織りなす長崎県五島列島。
かつて、隠れキリシタンが暮らした島々には現在50 を越える教会が残っている。陽光きらめく紺碧の海に点在する白壁の教会、石垣の天主堂。木造建築の大半は朽ち果ててしまったが、島民である信者が改築再生し守り続けている。

この地が現在「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産候補となっている。

2015 年は島にとって特別な年だという。1865年大浦天主堂献堂式に現れた信者により、かつて凄まじい弾圧により根絶やしにされたと思われていたキリスト教信仰が250 年もの間、潜伏しながら守り抜ぬかれて来た事実が発覚。“宗教界の奇跡”として世界へ伝えられた。番組ではナビゲーター役の村治佳織さんが、自らの一年半の闘病からの復帰に、教会群と島民(信者、神父)への思いを重ねてギターを奏でていた。

長崎と言えば、キリシタン殉教の歴史がある。作家の司馬遼太郎は著書『街道をゆく17 島原・天草の諸道』に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」と記している。

松倉重政はむしろ当初キリシタンには甘かったらしい。ところが上洛して将軍家光に拝謁した際「何を手ぬるいことをやっておるのか」と叱責された事とお上に対するいわゆるゴロツキのような媚びが、筆舌に尽くしがたい残虐な弾圧を始めたのである。同時に、空前絶後の領民に対する圧政を始め、息子の勝家の代(さらに悪行を増した)にはついに島原の乱を引き起こしている。
「牛馬が道を通っても税をとり、畳を敷けば税をとり、子が生まれれば人頭税をとり、死者を葬る穴を掘れば穴税までとった。茄子一本の実の数まで役人がやって来て数え何個か税として持って行ったという。島原の乱の民衆蜂起の動因は生存権を守るという段階は通り過ぎていて、もはや早くこの世を去るために結束するという絶望的なところに追い込まれていたキリシタンは二次的であった。」と書いている。

島原の乱が鎮圧された後、松倉勝家は幕府からその責任は死をもって負わされるのだが、幕府は民衆へのカムフラージュか、死を持って抵抗したキリシタンを恐れたか島原の乱の後、長崎地方のキリシタンへの弾圧ぶりはすさまじく、この世で考えられる責め苦は全て試したと記してある。その筆舌しがたい弾圧は遠藤周作著の『沈黙』で背教止むなきに至る宣教師にも描かれている。この弾圧を逃れ信仰を守るためには、五島列島という島々が複雑に入り組む地形に身を寄せることは必然だったのかも知れない。

しかし、その地形故に作物の耕作には適しておらず生活は困窮を極めたと言う。明治に入り、その後政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められ、多くの隠れキリシタンが信仰表明したが、これに反して五島藩はキリシタンを捕え、弾圧を繰り返した。
久賀島では、200 名の信徒がわずか6 坪の牢に8 ヶ月間も押し込められ40 名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている。番組中では犠牲になった幼子の碑も紹介されていた。しかし信者は、キリストの教えに習い弾圧したものを許そうと努めたという。

島では現在でも先祖代々からのキリシタン信仰を受け継ぐ「カクレキリシタン」の人たちも僅かながらいる。250 年もの間、時の権力者を絶対に信用せず弾圧を耐え抜き、密教として形を変えた「カクレ信仰」を持つ人たちの掛け軸の観音様はマリアのイコンとして、小さな木彫りの子を抱く地蔵はキリストを抱いた母子像の代わりである。

過疎化により島々の人口は減少している。小学校では島民を上げ運動会を催していた。島民たちはキリスト教も仏教も垣根はなく現在は平和に暮らしているという。島々に残る51 箇所の教会は世界遺産の登録決定を待ちながら、島の存続と教会堂の保存に期待を寄せている。
同時に世の中に、日本史の一隅にある信仰の苦難の道のりを忘れないでほしいと。

村治佳織さんは数々の美しい教会や旧跡を巡りながら、祈りと共に暮らす人々に出会う。
彼女が奏でる「主よ人の望みの喜びを」は、島々の絶景とそこで暮らし抜いて来た人々の思いへと深く繋がり、私の内に響いていた。

参考:NHKOnline 祈りと絆の島にて~村治佳織 長崎・五島の教会を行く~/司馬遼太郎『街道をゆく17 島原・天草の諸道』/遠藤周作『沈黙』/五島列島ウィキペディア

むさしの便り5月号 -むさしのの輪-より