説教 「涙で書かれた十字架」 大柴 譲治

ヨハネによる福音書 3:13ー21

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

涙で書かれた十字架

John Patton というアメリカ人の牧師の本を読んでいましたら、次のようなエピソードがあって私は強く心を動かされました。ある病院での出来事です。チャペルで死産の子供のための礼拝が行われました。子供の亡骸を抱いて泣きながら両親は聖壇に歩み出ます。チャプレンの眼からも熱いものがこみ上げてきて止まりませんでした。その時突然に、母親がチャプレンに「この子に洗礼を施してやって欲しい」と告げたのです。チャプレンは洗礼盤も水の用意もしていないことにたじろぎました。しかし次の瞬間、思わずチャプレンは、その母親と父親の目から溢れ出る涙を指でぬぐい、自らの涙をも混ぜて、子供の額に「父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を施す」と十字を切ったのです。

このエピソードがなぜ私たちの胸を打つのか。皆さんの中には愛する子供に先立たれた方もおられます。子を失う親の悲しみを言葉にすることはできません。悲痛の極みです。その痛みのどん底で洗礼式が行われる。幼子の額に涙で書かれた十字架は、私たちの悲しみの深みに降りてきてくださったお方がいることを示しています。私たちの傍らに立って、涙と痛みとを共有してくださるお方がいる。それがあの十字架にかかられた神の子、イエス・キリストです。自ら十字架を担うことで私たちを死と罪と無力さの中から救い出してくださったお方。

牧師は礼拝の最初と最後に十字を切って言います。「父と子と聖霊のみ名によって」と。また、洗礼式の中で牧師は受洗した者の額に親指で十字を切って言います。「○○。聖霊によって刻印された神の子であるあなたに、キリストの十字架をしるします」と。また、聖灰水曜日の礼拝の中では牧師が参加者の額に灰で十字架を書いて言います。「塵から出たものは塵にもどることを覚えよ」と言いながら。メメントモリ。死を覚えよということです。私もそうですが、祈りの最後に胸の前で十字を切る人もいます。私たちはそうすることでキリストの十字架を想起しているのです。そこでは私たちにとってキリストの十字架が初めであり終わりであり、すべてであることを思い起こしている。独り子を賜るほどにこの世を愛された神の愛を思い起こしている。本日の福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とある通りです。

青山四郎先生と夏英俊姉のご葬儀

先週の日曜、月曜と青山四郎先生のご葬儀がありました。私は青山先生とは神学生の時も牧師になってからもほとんどお話ししたことはありませんでした。しかし、ご葬儀での徳善先生の説教や教会員の山下さん、川上さんの思い出をお聞きするにつれ、また初谷さんや、杉谷さん、中山康子さんやご遺族のお話を伺い、あらためて青山先生の牧会者としてのすごさといったものを噛みしめています。

先週は礼拝で宮本新先生の説教がありましたが、青山先生も棺の中に入られてその礼拝に出席されていました。奇しくも新旧牧師のバトンタッチが目に見えるかたちで私たちの礼拝において示されたわけです。そして礼拝後に、川上さんが宮本牧師に携帯用聖餐セットを手渡したとき、「この時代に牧師になるということ自体が奇跡なのだ」という本郷教会の増島さんの言葉を引いて祝福されました。教会の長老からの言葉は若い牧師の中で響き続けてゆくだろうと思います。

先週の金曜日、黄大衛先生の奥さま、夏英俊姉が50歳の若さで天に召されました。結婚して20年、中国から日本に来日して12年、3月31日は夏姉が洗礼を受けてからちょうど9年の記念日だったそうですが、その日にご主人と高校一年生になる娘さんを遺して天に旅立たれました。私は前夜記念式に出席させていただきましたが、笑顔満面の遺影が涙を誘いました。ご主人を助けて、本当に苦労しながら、牧師家族としてキリストに仕え、日本のために骨を埋めてくださったのだと思います。

先ほど川上さんの宮本牧師に贈られた「牧師になるのは奇跡だ」という言葉を引きましたが、私は奇跡に与るのは牧師だけではないだろうと思います。このような時代に牧師夫人になるということも奇跡であれば、牧師を支えるパートナー信徒になるということ、キリスト者となるということも奇跡なのです。自分のことしか考えず、自分勝手な生き方をしていた私たちが、神さまの召命、コール、ヴォケーション、ベルーフに答えてゆくように方向転換させられ、信ずる者、愛する者へと変えられてゆくこと自体が奇跡であり、神の恵み深きみ業なのだろうと思います。ヨハネ福音書の言葉を借りれば、闇を好む者が光へと招き入れられるのです。まことに「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」でした。それも御子の十字架によって、涙によって救われるためです。最初にあげた死産の子どもの涙による洗礼式に明らかなように、悲しみと痛みのどん底でキリストが私たちと共にいましたもうという事実を示される。インマヌエルの根本的な事実(原事実)が示される。

青山先生のご生涯もそのようなキリストのご臨在を指し示す93年間であったと思われますし、夏さんの50年のご生涯もそうでありました。また、新しい牧師が誕生するという出来事も、今日は京都教会でのインターンを終えられた藤井求義神学生が司式を手伝ってくださっていますが、神学生が送り出されるということも神の奇跡のみ業です。本日はフィンランドから宣教百年を記念してお二人の方が礼拝に出席されていますが、遠い異国のために100年間も祈り続けてきてくださった群れがあるということ、またヨハンナ・ハリュラさんという宣教師が派遣されていま私たちと共にいてくださるという事実も、また私たちが今ここに共に礼拝を守っているという事実も、すべては「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛につながる奇跡の出来事なのです。

聖餐式への招き

本日は聖餐式に与ります。神の愛、恵みのみ業、キリストの涙と喜び、聖徒の交わり、すべてを私たちはこの食卓において分かち合いたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますように。神さまのみ国が来ますように。あまねくみ心が行われますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年 4月 2日 四旬節第四主日礼拝)