説教「光の音色」 関野 和寛牧師

ヨハネ 3:13-21

最後の奉仕

いよいよ来週からわたしは、東京教会に遣わされ牧師として歩みだします。ですが、その旅立ちの最後の日曜日に、ここ母教会むさしの教会で奉仕をさせていただきます。わたしを神学校へと送り出し、またこの四年間わたしのために絶えず祈りつづけてくれた皆さんに、感謝とありがとうの気持ちで一杯です。

この受け続けた恩をどのようにお返ししたらいいか考えてみました。献金で生活や本代を支えてくださったり、塩やジャム時にはチョコレートをくださったり、最近では新生活のために、包丁や食器を下さった方もいます。本当に手ぶらで返る日曜日は一度も無かったように思えます。本当に支えていただいた事実と時間の大きさに圧倒されて何もお返しできないというのが正直な所であります。

ですが、わたしに今日できること、いやしなくてはいけないことがあります。それはいつもと同じようにこのむさしの教会に集う皆さんに、イエスさまが語ろうとしていることを、聖書の御言葉を届けることであります。それだけしかできませんが、それが全てだと思うのです。

ステンドグラスの夢

今日は四旬節の第四主日です。主の十字架のへの道を思いながら、わたしたちは主の苦しみを、そして自分の罪を見つめながら過ごす時を持っています。わたしは先日ある夢を見ました。わたしが晴れた朝教会に来て見ると、このステンドグラスのガラスが全て外れているのです。この主の姿を形作っている色とりどりのガラスが全て無くなっていて、ガラスを支える淵だけが残されているのです。わたしは唖然として立ち尽くしてしまいました。なんだか廃墟にひとり取り残されたような喪失感さえ覚えながら、時間が止まってしまったのです。そして夢はそこで終わりました。

わたしは夢の意味が全く分からないまま、この四旬節を過ごして来ました。そして主の十字架の苦しみを思いながら、今日読んだ聖書の箇所を読んだ時イエスさまの言葉がこころに響きだし、はじめて自分が見た夢の意味が分かった気がしたのです。

16節「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」この言葉に何度も何度も想いをめぐらせていた時、このガラスの外れたステンドグラスの夢の意味が分かったのです。

わたしが立ち尽くしていた、朝の教会、そこにはイエスさまの姿を彩るガラスが無くなっていたけれども、それはがっかりすることではなかったのだ。ガラスはなかったけれども、その時わたしはこのフレームから差し込む朝日に照らされていたのです。そして分かったのです。「主イエスさまの本当のお姿は光そのものなんだ」と。ガラスが無くなっていたのは、神様がそのことをわたしに直接教えるためであったのだと思いました。

これだけ聞くと、「関野は何おとぎ話みたいな夢を見ているんだ」とお思うかもしれません。ですがこのように「主イエス・キリストは真の光だ」と強い想いが与えられたのは、自分の中に悩み、深い闇があることに気がつかされたからだと思います。先ほど読んだ福音書の19節には「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光より闇の方を好んだ」とあります。

闇に生きる

ヨハネ福音書は実に明確に「光」と「闇」と言う言葉を使い分けています。ヨハネ福音書3章の初めを読むとわかるのですが、今日の日課はファリサイ派の議員のニコデモという人物との会話の中での主イエスの言葉であることがわかります。2節を見ると「ある夜」という言葉が書かれています。ニコデモは夜、つまり闇の中で主イエスに出会っているのです。

これはニコデモを通しして、聖書が神から離れた人が闇の中、つまり罪の中ににいるということを示しているのです。ですから主イエスは聖書の中で執拗に闇について語るのです。「人々は光よりも闇を好むこと、悪を行う者は光を憎む」と。

ヨハネだけではなく聖書は実に的確に人という存在が闇の中にいるということを書いています。詩篇でもパウロの書簡でも実に多く闇という言葉が出てくるのに気がつかされます。聖書の最初のページを開けば、創世記では光が創造される前にすでにもう闇が深淵の表にあったと書かれているほどです。

聖書がこれだけしつこく闇について語るほどに、また同時に今を生きるわたしたちも実に深い闇に包まれています。先ほどわたしは悩みがあって、自分の中に闇を見たといいました。

今日このように牧師として皆さんの前に立てることは実に光栄なことです。ですが、正直にわたしのうちには喜びと同じだけ、もしかしたらそれ以上に闇があるのです。4年間を振り返ってみると、本当に多くの困難がありました。個人的に一番大切であった願いや人間関係の多くを失ってきたといっても過言ではありません。もしかしたら、牧師になる為の学びとはまたキリスト者になるということは、大切なもの無くし続け、それでもそれ以上に大切なお方と出会うことを確信する学びなのかもしれません。

一緒に神学校で学んでいた同級生の半分が、様々な理由で神学校を去っていってしまい、そのうちのひとりは他界してしまいました。またもうひとりの親友とは連絡が取れなくなってしまいました。

また牧師の服を身にまとっても、わたしのこころは何ひとつ変わっておらず、依然として人を憎み、自分のことしか考えていない自分がいることに、痛いほど気がつかされたのです。

今わたしが細かく自分の中にある闇を説明しなくとも、皆さんおひとりおひとり抜け出せない闇を抱えておられると思うのです。それは病や不安であったり、将来のことであったり、実に様々な闇を持っていらっしゃると思うのです。愛する人との死別という闇だってあります。それだけではなく、誰かを傷つけてしまった、または親しい人に傷つけられて、癒されない心の闇を抱えている方もいるでしょう。そうですヨハネ福音書が記すように、わたしたちは神を信じても、それでも闇の中から抜け出せず、その中に留まってしまうのです。

この人間の状況は創世記で描かれる最初の人アダムとエバの時から始まっています。何ひとつ不自由しない光り輝くエデンの園にいながら、神に背き禁断の木の実を食べた二人は、自ら暗闇のそこに落ちていったのです。人は暗闇の中にいる時、その闇の中でもがくことで精一杯になり、自分がどこにいるのか、自分が何をしているのかが見えなくなります。

だからこそ、神はアダムとエバに語りかけるのです「どこにいるのか?」と。この「どこにいるのか?」光を創造し恵み限りを与えたのに、自ら闇の底に落ちてしまった人を見捨てることなく、必死で探す神の悲痛な嘆きがそこにあります。

闇のキリスト

そして神は人を見捨てることをしませんでした。それどころか、神は究極的な救済措置、救いのみ技をなすのです。それが今日読まれた、福音の中の福音です。16節「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。  この御言葉には、自分のひとりの息子をベツレヘムの飼葉桶という夜の闇に送り、その生涯を通して十字架という絶望の極みにまで我が子を送った父なる神の闇があります。そしてキリストご自身の受難、苦しみがあります。だがその痛みを覚悟で神はわたしたちを救おうとされたのです。 わたしたちの闇の深さは計り知れません、誰にも言えない罪さえ抱えた闇、それを赦し、解放する為に自ら闇のどん底に飛び込んで来て下さったのです。それがこの御言葉の重みであります。

「世を愛された」の「世」とは神に背を向けてしまうこの世界と全ての人を表す言葉です。主イエスの十字架、この究極的な愛の出来事は誰一人をも滅びに落ちることを許さないのです。夜の闇の中で、イエスさまを信じていなかったニコデモに語られたこの言葉、「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」この言葉はみなさんが抱えている闇にも届くのであります。

わたしたちだけではありません、わたしたちの家族、親しい人、憎む人、死別してしまった人、全ての人々に向けられる主の御言葉なのです。

光の音色

この1週間、わたしは自分の闇とまた夜の闇とずっとにらめっこをしていました。そして紙に大きく暗闇という漢字を書きました。暗いとは、日の音と書きます。闇とは門の中に音があると書きます。漢字はシルクロードを経てキリスト教の要素を大いに含んでできたと言われています。

そしてわたしは感じました。暗闇にいる時、人は前の物も後ろの物も、今どこに自分がどこにいるのかさえ分からなくなる、光さえ見えなくなってしまう。だからこそ、わたしたちは光の音に耳を澄ますのではないかと。同じくヨハネ福音書でイエスさまはご自分のことを門であると言われました。闇という字はもしかしたら、この救の門であるお方の音を聞く場所であるということを現しているのではないかと気付かされたのです。また暗いとは日、日の音、つまり光の音を聞く場所であるということを示しているのではないでしょうか。

わたしは力不足ながら、皆さんの悩みを解決できるような者ではありませんし、病を癒すこともできません。神の光を指差して示すこともできません。もしかしたら、イエスさまの光とはかっこよく閃光のように上から照らす光ではないように時より思います。光なるイエスさま、それは上から照らすようなものではなく、十字架にあげられ、自らが闇と絶望を体験することにより、わたしたちの闇の底にまで下りて来てくださるお方なのではないでしょうか。

このようなお方の御言葉こそが光なのではないでしょうか。光にもし音色があるとしたらそれはただひとつ、キリストの声であると思います。このイエスさまの声が聞けるからわたしたちは闇から救われるのではないでしょうか。たとえ光が見えなくても、イエスさまの声、あなたの救いのために命を投げ捨てたという主の声を聞くことがわたしたちの救いなのではないでしょうか。

黄金にまぶしく光輝く光ではなく、わたしたちの闇の底であのロウソクのようにじわりと燃えるやわらかく優しい光なのではないでしょうか。

この四旬節を通して自分の罪と向き合う方々、また特に病や苦しみの中にある方々にこのイエスさまの光が与えられるようにと節に願います。わたしたちがたとえどんな闇の中にいようともこの主の救いの御言葉がみなさんおひとりおひとりに届くようにお祈りしています。

(2006年3月26日 四旬節第四主日礼拝説教)