たより巻頭言「復活の主の息」 大柴 譲治

(イエスは)そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)

漢字で「息」を「自らの心」と書くことに最近気づいた。私たちの息づかいにはその心が自ずと表れるということ。「人間の意識には志向性がある」とはフッサールの言葉。呼吸に意識を向けることの重要性を思う。自らの呼吸音は通常自分には聞こえない。それほど呼吸と意識が一つになっているということか。

神は土の塵で人をかたち造り、その鼻に自らの息を吹き入れられた。そして人は生きるものとなった(創世記2:7)。「生きる」とは「息する」と同源。赤ちゃんはオギャーと泣く前に一度大きく息を吸い込む。そして吐く息で泣き始めるのだ。昔の人は、人間の地上で最初の吸気の中に神の息/呼気を見たのだ。神は私たちの中に「自らの心/息」を吹き込まれた。ここに愛がある。「愛」という字は「(真ん中に)心を受ける」と書く。私たちは神の愛をその存在の中心に受け止めて呼吸するのである。愛はその意味で酸素のようなものであろう。

人がこの地上で一番最後にすることは息をフウーッと吐くこと。息を吸うところに始まった私たちの地上での生は、息を吐くところで終わる。その最後の息を責任をもって引き取ってくださるお方がおられる。私たちは天父に神の息をお返しするのである。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われたのだ。主の聖名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。

実は最初と最後の息だけではない。私たちのこの瞬間の一呼吸一呼吸が神とつながっているのだ。インマヌエル(神われらと共にいます)の神は、私たちと呼吸を合わせてくださる神である。そして祈りは霊的な呼吸でもある。

パウロは言う、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。喜ぶ者には喜びの呼吸があり、悲しむ者には悲しみの息がある。傍らで呼吸を合わせてくれる友を持つ者は幸いである。たとえ状況が全く変わらなくとも、私たちはそのような者の存在によって深く慰められ支えられる。主はそのような牧者である。

信仰とは神の息をこの身に感じて生きること。教会は呼吸を合わせる礼拝共同体。式文や讃美歌において共に息を合わせることで、私たちの呼吸は整えられてゆく。復活の主の息が私たちの中に吹き込まれている。呼吸が乱れたり行き詰まったりする日々の生活の中で、真の安息がここにある。父の召天を通してそう思わされている。神の息とは聖霊のこと。聖霊の風よ、我に吹き来たれ。時はアドベント。マラナタ!

(2008年11月号)