愛はストレスの妙薬            賀来 周一

・― 隣人を愛する
 人間関係ほどストレスを感じるものはないといわれます。教会は、まことに多種多様な人間の集団です。しかも教会というところは利害関係がなく、事は善意で動きます。まして愛し合うことが求められる世界です。それだけに一旦こじれると中々修復困難です。
 にもかかわらず、教会は、人間関係についての大原則を持っています。キリストは言われました。「あなたの隣人を愛しなさい」。改革者ルターは「隣人は愛するにもっともふさわしい相手である」と言います。愛するために隣人は存在する、これは教会における人間関係の土台です。
 好意を向ける隣人を愛することは難しいことではありません。反面、憎たらしい相手は、審いたり、拒否したり、回避したくなったりします。愛するなどとんでもないことで、憎む方がよほど自然で、むしろそれが当たり前とさえ思います。
・― 愛するということ
 愛するとは、心理相談の場では重要な援助者の態度です。カウンセリングを学ぶと相手に対して無条件の尊敬を払い、相手の気持ちに寄り添い、どんな相手であろうと審くことなく受容しなさいと教えられます。言い換えれば、隣人を愛する態度を持ちなさいということなのです。
 隣人を愛するとは、善いことをすることで相手との間に親しい関係をつくることだと考えがちです。しかしながら、無条件の尊敬を祓い、審くことなく受容するとは、相手が誰であれ、その存在そのものを肯定することを意味します。親しい関係をつくるかどうかの問題ではないのです。相手は相変わらず憎たらしいのかもしれず、場合によっては敵かもしれないのです。
 愛するとき、始めは、善意をもって相手に接しますが、その結果は相手の手の中にあります。こちらは愛したつもりでも相手は、その気持ちを額面通り受け取るかどうか分かりません。誤解したり、憎んだりするかもしれません。にもかかわらず、その結果を受容しなければ、愛したことにはなりません。
 ことの他、キリストは言われました。「あなたがたの敵を愛しなさい」。敵もまた隣人ということです。敵もまた、無条件の尊敬を祓い、受容すべき相手なのです。
・― 真実の発見
 それはどのようにして可能になるか、カウンセリング講座でのワークを紹介しましょう。憎たらしい相手、口も利きたくない人を思い浮かべてみます。できるだけ身近な人がよいでしょう。そして自分に言い聞かせるのです。「この人は世界にひとり。明日はこの世にいないかもしれない」。この言葉に「この人のためにキリストは死んでくださいました」とある人が付け加えました。
 「この人は世界にひとり。明日はこの世に生きていないかもしれない。この人のためにキリストは死んでくださった」とは、教会の中だからこそ確認できる、人間存在への究極の肯定です。
 しかし、これは、教会の中だけに留まりません。すべての人のためにキリストは死んでくださったからです。この思いを持って隣人に接するなら、親しい関係になるかならないかは越えて、すでに愛する関係が生まれています。
 そのとき、愛から生まれたなんとも不思議な「ゆとり」を心の中に感じないでしょうか。その「ゆとり」には、敵である相手から学ぶこと、関係が悪いからこそ見えてくる意味など、多くの新しい発見があるはずです。しかもその発見には、すべて真実が伴っているのを見ます。嘘やごまかしがありません。その真実を発見するとき、ストレスに代わって、健やかな自分がいることでしょう。それこそ「この私が求める真実」です。