「永遠のいのちを得るために」     大柴 譲治

エフェソの信徒への手紙 2:4-10、ヨハネによる福音書3:13-21


<「神はその独り子を賜るほどこの世を愛して下さった」>
 聖書は「永遠のベストセラー」と言われます。「死すべき有限な存在」である人間の多くが「永遠のいのち」を得るために聖書を手にしてきました。福音書の中には「永遠の命」を得ようとして主イエスに「どうしたら永遠の命を得ることができますか」と問いかける人が何人も登場します。マタイ19章では「ある金持ちの青年」、マルコ10章では「ある金持ちの人」、ルカ10章では「律法の専門家」、そしてルカ18章では「ある議員」が、そのように質問をしています。
 彼らは皆、「何をすれば」自分は「救い」を得ることができるかと主に問うていました。それに対して主は、十戒を守り、自分の財産をすべて売り払って貧しい人たちに分け、天に富を積んで私に従ってきなさいと命じます。しかし彼らはそれができずに悲しみながら立ち去ってゆくのです。ルカ10章で主は律法の専門家に対して「あなたは聖書をどう読むか」と問い返しています。「主なる神を愛し、隣人を愛しなさい」と正しく応えた律法学者が「では隣人とは誰ですか」と再び問うたのに対して、主はよきサマリア人のたとえを語ります。
 ヨハネ福音書は「永遠の命」をその中心主題として繰り返し語ります。本日の日課にも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とあります。それはニコデモとの対話の中に置かれた言葉なのですが、宗教改革者マルティン・ルターはこの節を「小福音書」や「小聖書」と呼ぶほど大事にしました。この箇所は聖書全体を一言で要約していると捉えたのです。ルターはこう言います。「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネ福音書の3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう」と。
 確かにこのヨハネ3:16は私たちが何度も味読すべき聖句です。私はここで「この世」という語を「私」と読み替えて理解したいのです。「神はその独り子を賜るほどこの私を愛してくださった」と。それは御子を信じるこの私が滅びることなく、永遠の生命を得るためだったのです。「自分が何をしたら永遠の命を手に入れることができるか」と問う人間に対して、ヨハネ福音書は「神の愛の御業に目を向けなさい」「イエス・キリストにおいて神がなされたことを見上げなさい」と告げています。

<「サル型信仰」と「ネコ型信仰」(岸千年)>
 故岸千年先生(元神学校長、JELC総会議長)が「信仰には『サル型』と『ネコ型』の二つがある」とよく言っておられたことを想起します。子ザルは自力で母ザルの背中やお腹にしがみつきます(サル型)が、子ネコは自分ではしがみつけません。母ネコがしっかりと子ネコをくわえて移動させるのが「ネコ型」です。キリスト教の信仰はネコ型で、神が向こう側から私たちをしっかりと掴んでくださっているのだというのです。先の「永遠の命をどうすれば自力で得ることができるか」という立場は「サル型」になりますね。その独り子を賜るほどにこの世を愛された神の御業にすべてを委ねるのは「ネコ型」です。これはとても分かり易い例話だと思います。
 今私たちは主の十字架の歩みを覚える「四旬節」(レント)の期間を過ごしていますが、主の十字架を見上げる時に、神の愛が他のどこにおいてよりも私たちに明確に迫ってくると思います。
 
「サル型信仰」が「自力型の信仰」と申し上げましたが、以前に獣医だった方からお話を伺ったことがありました。不登校の子供たちに深く関わってこられた方です。その方はサルの話をしてくださいました。私たちは「母性本能」とは本能的なものと思っているかもしれませんが、実はそうではないと言われて驚きました。サルも人も愛されることを通して愛することを学ぶのだそうです。母親ザルに抱っこされて育てられた子ザルでないと、自分が母親になった時に子どもを抱っこして育てないそうです。抱っこされて育つ時に大切なのは母乳と肌の温もりでしょう。確かに母乳は栄養バランスも良く免疫力も高めるようですが、それ以上に大切なことは、子ザルは母親ザルに抱かれることを通して母親の規則正しい心臓の鼓動を聞いて育つということなのだそうです。その安定した鼓動を感じながら子ザルは自分が愛されていることを学び、そこから自分が親になった時に「どう子どもを育てればよいか」を学ぶというのです。「サルも人も、愛されることなしには愛することはできないのです」とその獣医さんは語られました。これは確かに真理であると思います。しかしこれはなかなか耳に痛い言葉でもあります。自分がどれだけ親に愛されてきたかということと、子どもを愛してきたかということに関しては、私たちの多くが心の中で不十分であったのではないかという痛みを持っているからです。
 しかしそのような私たちに聖書は宣言します。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この宣言は私たちが神の目にはとても価値があるということを明らかにしています。「あなはたわたしの目に価高く、尊く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と聖書が告げている通りです。

<親子愛〜「強、火を付けろ」>
 「命がけの愛」があります。自分の生命を賭けて大切な者を守ろうとする愛です。2000年10月29日の読売新聞第一面の「編集手帳」に紹介されていたエピソードです。そこには、七年間も引きこもりをしていた息子が、ある時にガソリンを自らにかけて火をつけて死のうとします。咄嗟に父親が後ろから息子にしがみついて、「強、火をつけろ。私も一緒に死ぬから」と叫んだのでした。「斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。『強、火をつけろ』。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。」
 生命を賭けて息子を守ろうとする父親の必死の思いが伝わってきます。しかしその背後には、七年間にも渡る不登校の息子に対する忍耐強い愛があることを見落とすことはできません。強君のご両親と森下さんは中学校一年生、つまり13歳から20歳までの7年間、子どもと共に苦しみ、子どもと共に呻き続けたのです。それがあればこそ「時」を得て親子愛が伝わったのだと思います。森下一さんは言っています。「共生の思想は共死の思想に裏打ちされていなければならない」と。
 そしてこの本には、「共生の思想」ということだけではなくて、「共死の思想」こそが共生の思想を支えるのだという言葉が出てまいります。「強、火をつけろ。一緒に死ぬから」と言って、どん底でそのようにしっかりとひしと抱きとめられる愛。そのような共死の覚悟をもった絆の中で初めて、人は自分が愛されている、自分はそのような愛に生かされているということに気付いてゆくというのです。強君にとってはそれまでも変わらずに注がれてきたであろうその親の愛情が、20歳の時、20年間かかってその瞬間に初めて本当のものとして自覚されたのです。私はそのお父さんの覚悟の深さと同時に、7年間もたゆまずに、諦めずにずっと強くんに寄り添い、関わり続けてきたご家族や、精神科医の森下先生の忍耐強い愛情に心を動かされるのです。人生には自分が愛されているということが分かる決定的な瞬間があります。私たちにはそれを伝えてゆくべき瞬間があるのです。愛とは共に死ぬ覚悟をもって共に生きることなのです。「『共生』だけでは、私は人生観としても宗教観としてもきわめて不完全なものだと思います。なぜならそこには、生きることだけに執着するある種のエゴイズムの匂いを感ずるからです。『共生』という思想は『共死』の思想に裏づけられてこそ、はじめて本物になるのではないでしょうか。・・・共に生き、共に死ぬということがあってはじめて人間の成熟した人格形成が可能になるという人間観が抱かれるようになったのです。その意味において『共死』という観念抜きの『共生』論はきわめて一面的なものではないかと思うのです。」(山折哲雄)
 私は主の十字架を見上げる時に、この斎藤強くんとお父さんのエピソードを思い起こします。あの十字架の出来事は、ガソリンをかぶって火をつけようとする、死のうとする、滅びようとする私たちを、うしろからしっかりとがしっと支え、抱きとめてくださったお方の愛を表している出来事なのだと思います。キリストは私の身代わりとなって十字架の上で死んでくださいました。ここに真実の愛があります。キリストがその苦難と死によって勝ち取ってくださった「永遠の命」があります。これは天地万物が揺らぐとも決して揺らぐことのない出来事です。人間が私たちがどのようなときに、ほんとに生きていてよかった、ということを感じるのか。それは真実の愛しかないのだと思います。このような「共死の覚悟に裏打ちされた」真実の愛が私たちを捉えて離さないのです(ネコ型信仰!)。
 そのことをパウロは本日の使徒書の日課であるエフェソ書2章でこう言っていました。 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ2:4-6)
 このことを覚えながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。皆さまお一人おひとりの上に、神さまの豐かな祝福と導きとがありますように。アーメン。

(2015年3月15日礼拝説教)