説教「キリストの神殿」 大柴 譲治牧師

ヨハネ 2:13-22

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

なぜ主はかくも激しく抗議したのか

今日私たちは、福音書の日課に記されているイエスさまが神殿から商人を実力行使で追い出すという過激な行動に驚かされます。エルサレムの神殿はヘロデ大王が46年間をかけて建築した神殿で、それはそれは壮麗なものであったと伝えられています。そのイエスさまの神殿での「宮清め」は人々の度肝を抜き、強く当時の人々の印象に残ったに違いありません。マルコやマタイ、ルカ福音書においては神殿を壊し、三日後に建て直すというこの言動が結局、神への冒涜としてイエスさまを十字架へと追いやったという書き方がされています。それほどこの行為は、ユダヤ人指導者階級の逆鱗に触れた行為だったのです。

もう一度読んでみましょう。「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した」。なぜイエスさまはエルサレム神殿においてこのようなことをなさったのか。本日はこのことの意味を探ってまいりたいと思います。

それにしても、イエスさまも怒るべき時には怒るのだということを私たちは知らされます。それもものすごい剣幕です。私たちも怒りや激情に駆られて思わず大胆な行為をしてしまうことがありますが、しかしこのイエスさまの行為は、そのような発作的な行為、偶発的な行為ではなさそうです。イエスさまが犠牲の動物たちを押し出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒したのは、それが私たちにとって重要な事柄であり、緊急な事柄であるということを示す必要があったからだと思います。だからこそ決然として主は行動を起されたのです。イエスさまは毎日のようにエルサレム神殿で教えを語っておられたようですから、それは象徴的な行為、しるしとしての行為であったとも考えられます。神殿を警護する神殿守衛体やエルサレムを警備するローマの兵卒たちが駆けつける前にこの騒動は一応収まったのでありましょう。

イエスさまはエルサレム神殿を「わたしの父の家」と呼び、そこを「商売の家にしてはならない」と叫ばれました。そこは父なる神の「祈りの家」であるべきなのです。神殿とは、神さまと私たちとが固く結びついているということを示す祈りの場です。本日の旧約聖書の日課(出エジプト20:1-17)には十戒が与えられていましたが、その最初に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と記されていたように、神殿は神との関係が質される場なのです。そこでは神との関係こそが大切であり、それ以外のものが中心に置かれてはならない。取って代わってしまってはならないのです。ただ神さまとの関係こそが第一であり、すべてである。「神殿」とはまずそのことが明確に示されるべき場所なのです。

周辺的なことにこだわりすぎると、中心が曖昧になってしまう。そのようなことが私たちにはよく起こります。イエスさまにとってはその最も中心的な事柄、神関係こそがまず第一に回復されるべき事柄であったのです。その意味で、イエスさまのこの大変過激な宮清めの出来事は「真の神を真の神とする」信仰の刷新の出来事であり、宗教改革の出来事であったと申し上げることができましょう。

ヨハネ福音書が、他の三つの福音書とは異なり、この宮清めの出来事を2章の、カナの婚宴で水をぶどう酒に変えるという最初のしるしの後に置いていることも、その重要性を表しています。イエスさまのご生涯が、私たちに十戒を十戒として取り戻すための、真の信仰をもう一度取り戻すために備えられているのだということを、ヨハネ福音書は中心的神学的な主題としてその最初に記していると申し上げることができましょう。

日常生活のただ中で神を神とすること

そしてその出来事はどこか遠いところで行われた出来事ではありません。私たち自身の心のただ中で、私たち自身のために行われた出来事であり、今もなお行われ続けている出来事なのだと思います。イエスさまは野の花、空の鳥を指さしながら「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば必要なものはすべて添えて与えられるのだ」とおっしゃいましたが、真の神を神として礼拝し、心からの讃美と祈りと感謝を捧げること。それも特別な日、特別な場所だけではない。日ごとの日常生活の中で神を神とすること、これが私たちに求められている事柄でありましょう。

この場所(むさしの教会)は、言うなれば私たちにとっての「エルサレム神殿」と申し上げることができましょうが、ここでは毎週日曜日に礼拝が行われています。感謝の捧げ物も捧げられてゆきます。冠婚葬祭の式が行われます。それだけではない。バザーもあれば、音楽会もあれば、講演会もあるし、様々なグループの活動が行われます。しかしすべての中心は、あのステンドグラスに明らかなように、イエスさまを通して天の父なる神を神とするということにあります。その中心がもし曖昧になっているとすれば、私たちには宮清めが必要でありましょう。そのことは神を神とするためにも私たちが常に自らに問い続けなければならない事柄であると思います。

人生の中心は天の父なる神さまとの関係にあるということは明確です。あのステンドグラスに描かれたお方が、その関係を私たちにもう一度回復するために十字架にかかり、三日目によみがえってくださった。このお方のゆえに私たちは、もはやエルサレム神殿のような特別な空間や時間を必要としない。キリストご自身が私たちのために神の宮となってくださったのですから。いつどこででも私たちは、主イエス・キリストのみ名によって、十字架と復活の出来事を通して、天の父なる神さまとつながっているのだということを覚えたいと思います。

HM兄のこと

神を神とすること。それが本日の宮清めの出来事です。何か見えるもの、壮麗なもの、儀式的なもの、祭儀的なものに頼ることはできません。言い換えれば私たちの生活、私たちの人生の中心に神さまを持つということです。そのことの重要性は普段の生活においてはあまり見えてこないことかもしれません。しかし私は牧師として様々な場面に立ち会わせていただきますが、いざという時に力になるのは、やはり神を信じる信仰ではないかと思います。もちろん、信仰というのは思い込みとは違います。思い込みが自分の中にあるもの、自由度が乏しい頑ななものであるのに対して、信仰とは自分の外にあるもの、自分と神さまとの間にあるものであり、もっと自由でしなやかで柔らかいものです。信仰とは神さまとの生き生きとした信頼関係を指しています。信仰とは自分の思い込みや計画や信念や自信が打ち砕かれた後にも残るものです。それは私たち自身の中から来るものではなく、上から神さまから来るからです。人生のまことの土台、まことの中心を与えられているかどうか、持っているかどうかが私たちに問われているのです。

私はこれまでにいくつもの死の看取りをしてまいりました。忘れられない出会いがあり、別れがありました。お一人おひとりの真剣なまなざしと安らかなお顔を思い起こします。真の神を神とするということの力は、普段は分からなくとも、そのような時に真価を発揮するのだろうと思います。

この教会のメンバーでもあられたHM兄のことを思い起こします。Mさんは五年前の8月にすい臓ガンのために70歳のご生涯を終えて、安らかに神さまのみもとに帰って行かれましたが、むさしのだよりに次のような言葉を記してくださいました。「小学校の時から祈りと聖句に支えられてきました。今でも寝る前に『神さま、み心ならば、安らかにあなたの国へお召しください。また、み心ならば、明日の朝起こしてください』と祈っています。私の中に生きる欲があるからでしょう。そして、何よりも私の心の中に、母の信仰が生き続けているんです。」

寝る前に「神さま、み心ならば、安らかにあなたの国へお召しください。また、み心ならば、明日の朝起こしてください」と祈る姿勢。この信仰の姿勢が日常生活の中で、死に至るまで最後まで貫かれたのだと思います。Mさんの最後のお顔が不思議な平安に満たされていたことを私は忘れることができません。

「キリストの神殿」としての私たち

今は四旬節。主の十字架の道行きを覚える期節です。ヨハネ福音書は記します。「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った」。権威が重要だったのです。「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハネ2:18-22)。

十字架と復活の主イエス・キリストこそ、私たちに神との生き生きとした関係を取り戻すために上から与えられた新しい神殿だったのです。キリストを信じる信仰において、私たちには空間や時間に限定されない真の礼拝が始まったのです。私たちが見習うべきは、主がどのような時にも父なる神さまに対して「アッバ父よ」と呼びかけられ、霊とまこととをもった人格的応答関係に生きられたことでありましょう。祈りということはそのような神との対話を意味しています。キリストが私たちのために心の宮清めを行ってくださり、自らが神の神殿となってくださったことを覚えて感謝したいと思います。そしてそこから私たち自身もまたキリストの神殿として信仰生活を送るように召し出されているのです。

最後にパウロの1コリント6章からの言葉を読んで終わりにします。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6:19-20)。

お一人おひとりの上に神さまの豐かな守りと導きがありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年3月19日 四旬節第三主日礼拝説教)