たより巻頭言「みどりの風に吹かれて」 大柴 譲治

「みどりも深き若葉の里 ナザレの村よ、
  ながちまたを こころ清らに行きかいつつ、
  育ちたまいし 人を知るや」
(賛美歌122番)

新緑が目にまぶしい。風が頬をなでてゆく。苦しみや悲しみは果てしがないのに、柔らかな陽光に世界は輝いている。緑にも様々な色合いがあることに気づく。その色彩の多様さを見ながら、自然の生命が回帰してゆくことの不思議さを思う。

4/25(土)、池袋の東京芸術劇場で重見通典牧師の指揮するマタイ受難曲を聴いた。それは音楽会というよりも、礼拝そのものであるように感じられ、心に響いた。関係者の労を多としたい。

その音楽を聴きながら、改めてペトロに自らの罪を覚醒させた鶏の声にハッとした。翌日の主日礼拝では、復活の主が弟子たちのために炭火を起こし、焼き魚を焼いて朝食を準備されるというヨハネ21章の御言が聖書日課として与えられていた。鶏の鳴き声、そして炭火の煙と焼き魚のにおい。それらは不思議なほどリアルな質感(脳科学者はそれを「クオリア」と呼ぶ)をもって私に迫ってきた。十字架と復活のキリストのリアリティーをそこに強く感じたのである。

私たちの五感が呼び覚まされる瞬間がある。それは、私が今ここに生かされていることを実感する瞬間である。それは思いもかけぬタイミング、思いもかけぬ仕方で、いつも向こう側から与えられる。鶏の鳴き声にペトロは自分の裏切りを予告する主の声を思い出して泣き崩れた。炭火と焼き魚のにおいの中に弟子たちは、主が準備してくださった最後の晩餐を思い出してハッとした。それは、弟子たちが深い痛みやどうしようもない弱さを抱えながらも、そのただ中で、それを超えて、復活の主が弟子たちを受容し、共におられるという神の真実が彼らを捉えた瞬間でもあった。私たち自身にもそのような覚醒の時が備えられているに違いない。

4月から新しい歩みを始められた方々の上に祝福を祈りたい。それぞれの生活の場、「みどりも深き若葉の里」において、主から贈られる薫風を感じることができますように。

(2009年5月号)