説教「荒野から響いてくる声」 大柴譲治牧師

ヨハネによる福音書 1:19-28

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

洗礼者ヨハネの使命

荒野からの声がします。「主の道をまっすぐにせよ」。このイザヤの預言は洗礼者ヨハネにおいて実現しました。洗礼者ヨハネは神のメシヤであるイエス・キリストの到来を指し示す荒野の声としての使命を果たしたのです。本日は「荒野から響いてくる声」と題して、洗礼者ヨハネに焦点を当てながら、私たちに与えられた「この世におけるキリスト者の使命」ということについて思いを巡らせてゆきたいと思います。

自分に天から与えられた使命を自覚し、そのために生き、また死ぬることができる者は幸いであります。たとえそれが人間的に見ると天寿を全うしたというように見えなかったとしてもです。洗礼者ヨハネは自分が正しく与えられた使命を果たしたかどうか獄中で揺れ動いた時もあったようです。ですからマタイとルカはヨハネが獄中からイエスのもとに弟子たちを送って「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせている(マタイ11:2-19、ルカ7:18-35)。

イエスを指し示す荒野の声の役割を終えると、ヘロデに捕えられ首をはねられてゆくという無残な最後を迎えてゆきます。しかしヨハネは満足していました。尽きることのない喜びに満たされていたのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:27-30)。

松下容子姉のこと

「使命」ということで思い起こすのは、私がこの教会に着任した時に求道しておられた松下容子さんのことです。松下さんはガンで余命半年と宣告されてから、お友達の青村さんのおられるこの教会で求道を始めました。徳善先生の頃です。そして私へとバトンタッチをし、1997年のクリスマスに受洗。翌98年6月4日、ご主人と三人の娘さんが見守る中、武蔵小金井の桜町聖ヨハネ病院ホスピスにおいて大変安らかに47歳のご生涯を閉じて神さまのみもとに帰ってゆかれた方です。先週の礼拝にご主人とお嬢様二人が久しぶりに出席しておられました。

松下さんの臨終の床にはキャロル・サック夫人とYN姉が立ち会って、ハープを奏で、讃美を歌ってくださいました。その調べが悲しむご遺族にとって本当に大きな慰めであったことと共に、その時の出会いを通してサック夫人に音楽死生学 Musicthanatology という天からの召し(使命)が与えられていったということがとても印象的でした。来年からサック夫人の指導により、死に行く人々をハープの音色と歌声で支える『祈りの立琴(リラ・プレカリア)』の働きが、ルーテル社団を中心として始動してゆくことになっていることの中にも神さまのみ業を感じます。

『死ぬ瞬間』という書物でよく知られているエリザベス・キューブラー・ロスは死と死に行くプロセスを人生最後の成長の場であると位置づけていますが、松下容子さんもそうでした。余命半年という宣告を受けて、死を明確に意識する中で、どう人生の最後をまとめてゆけばよいか、愛する家族を残してゆかなければならない苦しみと悲しみの中で、松下さんは神の道を求めたのでした。

JR阿佐ケ谷駅は当時まだエレベーターもエスカレーターもついていませんでしたので、毎週あの長い階段を一歩一歩踏みしめるようにして降りてきてこのむさしの教会に通われたその姿勢に、私は牧師として身を正されるような思いをして受洗準備会を行いました。そして1997年のクリスマスに洗礼を受けられた松下容子さんは、家族のためにも自分のためにも様々な治療を試みて行かれましたが、やがて病いが信仰する中で最後の時を迎えられます。

亡くなられる三日ほど前にホスピスを訪ねた私は病床聖餐式を行いました。その後のことです。きらきらといたずらっぽく瞳を輝かせながらこうおっしゃったのです。「先生、もしかしたら間違っているかもしれませんが、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」。私はにこにこしながらその言葉を聞きましたが、本当に深く心揺さぶられるような思いを持ちました。死を前にしてこの方は死を越えた生命の希望を見上げておられる。妻としても母としても、まだまだやりたいことがたくさんあって、言わば志半ばでこの世の人生を終えてゆかねばならないそのような限られた時間の中で、言わば人生の荒野の中で、精いっぱい道を求め、そして私たちのためにあの十字架にかかり、死してよみがえられたお方、イエス・キリストと出会ってゆかれた。そこから語られた信仰の告白でした。

「人生は神さまと出会うためにある!」 それは生と死を越えたお方にしっかりとつなげられて揺るぐことのない言葉でした。松下容子さんは、キリストを信じ、キリストと共に死を越えて行かれた多くの信仰者と共に、荒野の中から響いてくる声、「主の道筋をまっすぐにせよ」という声を確かに聴き取ったのです。そして自分に与えられていた使命、それは実は洗礼者ヨハネと同じ使命であったと私は思っているのですが、自分の人生のすべてをそのお方に委ねてゆくことの中に、その使命を果たして行かれたのだと思います。

キリスト者の使命~荒野に響く声

人生には荒野と呼ぶ他ないような時があります。余命半年と告知された時の松下容子さんもそのような荒野に置かれたのだと思います。荒野というのは死の世界で、人間が自分の力に頼って生きてゆくことができない場所です。聖書において荒野は、ただ神さまに頼って生きる以外にない、そのような神顕現の場所でもあります。人の力が尽きたところで神のみ業が働いていることが分かる、そのような場所です。「荒野」とは主の道を整え、その道筋をまっすぐにする、そのような場であり、そのような時を指しているのだと思います。

そしてもっと言うならば、荒野において私たちは神と出会うのです。荒野とは神と出会う場所なのです。イスラエルの民においてもそうでした。彼らがエジプトを脱出して40年間荒野をさまよった時にモーセを通して十戒を与えられて神との契約が更新される中で信仰が深められていったように、またバビロン捕囚という辛い民族離散という荒野体験を通して徹底的に自分たちの無力さを思い知らされたときに神に立ち帰ることで死んで生きるという復活信仰という希望が与えられように、荒野において徹底的に自分自身の力が打ち砕かれる中で私たち人間は神のみ業が働くのを見るのです。

そのような荒野において神はご自身を現わしてくださった。荒野に「主の道をまっすぐにせよ」と響く声が私たちを主イエス・キリストへと導いてくれた。荒野で主の道と出会ったのです。

ここにお集まりの多くの方も、そうではなかったかと拝察いたします。大きな悲しみや苦しみを通して、自分の病や人間関係や仕事上で大きな壁にぶつかったことを通して、私たちはキリストと出会うことへと導かれてきたのではなかったか。私たちは確かに荒野から響いてくる声を聴いたのです。そこで荒野に敷かれた主の道と出会ったのです。

「たとえ明日、世界の終わりが来ようとも」

先週もSK姉の納骨式やTS兄のご葬儀などが前半に続いた一週間となりました。人間の生と死の場面に立ち会わせていただく中で、私は一人の人間としてさまざまな事を感じ、考えさせられます。もう12月なので今年一年を振り返ってみると、教会では夏の耐震補強工事もありましたが、ご葬儀が続いた一年であったと思います。1月、2月、3月、4月とご葬儀が続き、9月、10月、11月、そして12月とご葬儀や告別記念会が続きました。それ以外にも5月末に榎津重喜神学生が白血病のために50歳で天に召されてゆきましたし、9月にはKM夫人が神さまのみもとに帰ってゆかれました。

人間が「死への存在」であると見たのはハイデッガーでしたが、確かに私たちは、刻一刻と砂時計の砂が下に落ちてゆくように、この地上での生命を短くしているのです。ここにリンゴの飾られたクリスマスツリーが置かれていますが、これを見るたびにしばしば私はルターが語ったと伝えられてきた「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、今日わたしはリンゴの木を植える」という言葉を思い起こします。

私たちは確かに明日をも分からぬ生命ですが、生かされている「今」を大切にする以外にはないのだと思います。この出会いを一期一会と念じ、今日なすべき使命を心をこめて行うのです。「野の花、空の鳥を見よ」と主は言われました。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。それは今を大切に生きることへの招きなのではないか、そう思います。

断ち切られた執着心

昨日は今年の1月に突然の病いでご主人を亡くされたある方が、記念会の打ち合わせのためにお見えになりました。お話をする中で、その方が哀しみを越えてしっかりと前向きに新しい道を踏み出していることを感じてホッとすると共にとても嬉しくなりました。事故や病気などで突然に愛する者に先立たれる場合、死を受け入れる準備期間がなかったために、その喪失の哀しみが長引いてしまう場合が多いために案じていたからです。お話を伺っていると、納骨式を境にフッと楽になったのだそうです。「やはり自分の中にある執着心が一番の問題だったんです。それが無くなったときにとても楽になりました。主人の身体はもうないんですけど、あの人は私の中にいつも一緒にいてくれるんだっていうことが分かったんです。主人のからだではなくて魂が一緒にいてくれるんだって分かったんです。」

私はその言葉を聞きながら、CSルイスの言葉を思い起こしていました。「夏のあとに秋が来るように、結婚の後には必ずどちらかが死んで離別が来る。しかし、それは踊りの中断ではなくて、新しい踊りの始まりなのだ。二人は過去に戻るのではなく、見えない相手と共に新しい踊りを始めるのである。」ルイスは死を越えた新しい愛の段階の始まりがあることを指摘しているのです(『悲しみを見つめて』)。

そのように悲しんで悲しんで悲しんで、悲しみを通り抜けたときに見えてくる次元があるのだと思います。愛する配偶者を失って深い悲しみの中にあったご夫人は私に「自分の中の執着心が断ち切られて楽になりました」と語ってくださいました。悲しみのトンネルを抜けるとそこは光の世界が待っている。同様の体験を重ねてこられた方も少なくないのではないかと思います。自分自身の限界、無力さ、悔い、憤り、絶望、そのようなものと対峙して迯げる事のできない場所、私たちにとって「荒野」とはそのような場所であり、時であり、体験であるのだと思います。

今、ここで神と出会う

本日の福音書の日課の最後の部分(1:28)にはこう記されていました。「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」。このようにヨハネ福音書はしばしば時と場所に対して特別な関心を払っていますが、それは救いの出来事は観念的なものではなく、固有の具体的な歴史的・空間的な場において受肉した現実の出来事なのだということを強調しているのだと思います。

私たちの生きている今、ここで、具体的に、私たちが自分の無力さを感じ、自分がゼロであり無であることを知るとき、そこにおいて荒野からの声が響き、キリストの道が備えられ、神の救いのみ業が実現するのです。そして私たちキリスト者の使命は、洗礼者ヨハネがそうであるように、福音書記者マルコやヨハネがそうであるように、そして松下容子さんや多くのキリストの証人がそうであるように、このキリスト・イエスの救いを指し示す荒野の声を響かせてゆくところにあるのだと思います。「人生は神と出会うため、救い主イエス・キリストと出会うためにあるのだ!主の道をまっすぐにせよ」という声を。

お一人おひとりの上に神さまの豐かなお恵みがあるようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年12月11日 待降節第三主日礼拝)