説教「私たちと共におられる神」 鈴木 浩牧師

ヨハネによる福音書 1: 1-14

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

クリスマスの最大の意義

クリスマスおめでとうございます。今年もこうしてご一緒にクリスマスをお祝いすることができることを心から神に感謝したいと思います。今年も世界中でクリスマスがお祝いされています。また、日本でも様々な形でクリスマスが祝われていますが、クリスマスを祝う最大の意義は、クリスマスの出来事とはそもそも何であったのか、そして、それが今の私たちにどんな意味を持っているのかを改めて確認することにある、と言えるでしょう。ですから、クリスマスを祝うのに最もふさわしいのは、クリスマスを記念する礼拝ということになります。

ヨハネ福音書の伝えるクリスマスの出来事

今年のクリスマスの福音書日課は、ヨハネ福音書1章1節以下14節までの箇所になっています。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」という印象的な書き出しで始まるこの部分は、ヨハネ福音書全体の「序文」に相当します。

ここで「言葉」と訳されている言葉は、「ロゴス」というのがもとの言葉で、普通の意味での「言葉」よりももっと広い意味を持っています。「理性」とか「根拠」とか「論理」とも訳しえる言葉です。英語の「ロジック」(論理)という言葉は、この「ロゴス」がもとの言葉です。しかし、最も一般的な意味では、「言葉」という意味で使われるので、ここでも「言葉」と訳されています。一番古い日本語訳の聖書は名古屋弁で書かれていたそうですが、その翻訳では「初めに賢いものござった」という具合に「賢いもの」と訳されていたそうです。ある翻訳では「道」という漢字をあてて、それに「ことば」という読み方が付けられています。

しかし、この序文の中で、クリスマスの出来事と直接の関連があるのは、きょうの日課の一番最後にある14節の「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という箇所だけです。「言葉が肉となる」、それがヨハネがクリスマスの出来事を総括して語っている言葉なのです。ここには、私たちにお馴染みの「ベツレヘムの星」も「東方の博士」も出て来ませんし、マリアもヨセフも出て来ません。クリスマスの雰囲気を出すには不可欠だと思われる出来事も何も書かれていませんし、お馴染みの人物も登場して来ないのです。ただ、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という、聞きようによっては非常に謎めいた言葉があるだけです。

クリスマスの出来事が何であるかは、幼稚園の子供でも一応分かっています。マリアからイエスが生まれたというのがその出来事の中心にあります。しかし、マリアが産んだ子供は、マリアが産んだのですから、マリアの子供ではあっても、聖霊によってみごもっていたので、神の子である言われています。子供たちも、イエスが神の子であるということは知っています。イエスの誕生は何か非常に特別な出来事で、だからこそ、天使が現れたり、不思議な星が現れたり、遠くから博士たちもやって来たのだ、ということも子供たちは知っています。

しかし、子供たちも含め、私たちがクリスマスについて抱いているイメージは、マタイ福音書とルカ福音書に記されている出来事が中心になっています。多分、ほとんどの人は、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というヨハネ福音書の言葉をクリスマスに結び付けて読むことはないでしょう。教会に来ている人でも、クリスマスのテキストとして、この箇所がクリスマス礼拝で読まれて初めて、この箇所をクリスマスとの関連で改めて考える、というくらいではないでしょうか。

「肉」となった「神の思い」

しかし、それにしても「言葉は肉となり、わたしたちの間に宿られた」というのは、不思議な表現だと思います。まず、「言葉」という言葉も、先ほど説明したように、日本語とか中国語とかいう意味での「言葉」ではありませんし、私たちがお互いに話をするときに使う「言葉」という意味でもありません。少しくだけた言い方をしますと、それは「神の抱く思い」とか「神の考え」というような意味なのです。しかし、「神の思い」といっても「神の考え」といっても、人間の思いや考えと違って、漠然としていたり、曖昧だったり、矛盾したところがあったり、というようなことはありませんから、筋道がしっかりと通っているという意味で「論理」とか「根拠」という意味を持つ「ロゴス」という言葉が使われ、それが「言葉」と訳されているのです。

「神の思い」という言葉に切り替えて、最初の文を見てみれば、「初めに神の思いがあった。神の思いは神と共にあった。神の思いは神であった」となります。もう少し言い替えれば、「神の思い」は「神の意志」ということになりますから、「初めに神の意志があった。神の意志は神と共にあった。神の意志は神であった」となります。ヨハネ福音書の冒頭の言葉が意味しているのは、実は、そういうことであります。「神の意志」は「神そのもの」ではありませんが、「神の意志」の中に神の全体が示されているという意味では、神の意志は神なのです。ちょうどある人の意志が、断固としたものであれば、そこにその人の人格全体が示されているという意味で、「その人の意志はその人である」と言えるのと同じ意味で、「神の意志は神」と言えるでしょう。

すると、「言葉は肉となった」という表現は、「神の意志が肉」となった、と読み替えることができるでしょう。しかし、まだ問題があります。この「肉」という表現も、普通の意味での「肉」では、無論、ありません。日本語では「肉」という言葉は、「牛肉」とか「豚肉」という意味で使うのが普通です。あるいは、精神と区別して「肉体」と「精神」という表現も使ったりします。

しかし、ここでは「肉」という言葉はそういう普通の意味ではなく、非常に特別な使われ方がされています。結論から言えば、神が「霊」であるのと対比して、人間が「肉」と言われているのです。「肉」というのは、ここではずばり「人間」という意味なのです。すると、「言葉は肉となった」という表現は、「神の意志が人間になった」と言い替えることができるでしょう。しかし、「神の意志は神と共にあった。神の意志は神であった」と最初に言われていましたから、「神が人間になった」という言い方も可能になります。

このように、今の私たちに一番分かり易い言い方にすれば、ヨハネ福音書1章14節の言葉は、「神が人間になった」ということになります。このことは非常に重要な意味を持っています。というのは、幼稚園で私たちがするクリスマスの話し方で行けば、神の子のイエスは、父親が神様で、母親がマリアで、その間に生まれた子供、ということになるからです。多分、子供たちにはそれ以外の理解はできないでしょう。しかし、イエスはだから「神と人間のハーフ」で、半分が神で半分が人間だ、などということではないのです。ヨハネがここで言っていることは、それよりも更に一歩踏み込んでいます。ヨハネは「神が人間になった」と断定しているのです。イエスは神と人間のハーフではなく、人間となった神なのだ、とヨハネは言っているのです。

使徒パウロも教会の礼拝式文を引用して、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思われず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」と言っています。「神の身分」「神と等しい者」が「僕の身分」「人間と同じ者」になった、というのです。ですから、パウロも、ヨハネと同じように、実質的には「神が人間になった」と言っているのです。

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書いたヨハネは、クリスマスのあの物語をすべて省略した代わりに、「神が人間となって、人間として、人間の間に住まわれた」と言っているのです。それが、「言葉は肉となり、わたしたちの間に宿られた」というヨハネの言葉が意味していることなのです。ヨハネは、このようにマタイやルカよりも更に一歩踏み込んだ発言をしているのです。

私たちと共におられる神~「インマヌエル」

ところで、福音書記者マタイは、イエスの誕生を記した物語の締め括りで、イザヤ書を引用して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と書いています。「人間と共におられる神」、それが「インマヌエル」の預言の意味だというのです。マタイは、人間の救いとは、神が人間と「共にいてくださる」という事実にある、と言いたいのです。しかし、「共にいる」という言葉で考えられるのは、例えば、「連帯」とか「共存」とか、あるいは「共生」といったようなことだと思いますが、人間はいろんな形で、あるいはいろんなレベルで、「共にいる」ことができるでしょう。

ヨハネによれば、神は、自ら「人間になる」ことによって、神が人間と共にいるというあの預言を成就されたのです。「人間になる」ということは、最も密度の高い仕方で「人間と共に」いる、という意味です。神は神のままで、「人間と共にいる」ということも、あるいはできたでしょう。しかし、それでは、神と人間との間には依然として大きな距離があることになります。神が人間との距離をなくして、真の意味で「人間と共にいる」ためには、神ご自身が「人間となる」以外にはないのです。「神が人間となる」というのは、神と人間の間の無限の距離を神が自ら取り除いてくださって、その上で「人間と共に」いてくださる、ということなのです。それが、インマヌエルという出来事、つまり、「神は我々と共におられる」という出来事だったのです。そして、それが、クリスマスの本来の意味なのです。

しかし、神が人間になられたとき、神はマリアから生まれるという形でこの世に来られたのです。そのことを考える度に、大きな驚きに捉えられます。「人間となられた神」であるイエスは、マリアの腕に抱かれてあやされている赤ちゃんなのです。人間の赤ちゃんですから、母親からおっぱいをもらい、母親におむつを換えてもらい、母親に始終世話をしてもらわなければ、一日たりとも生きていけないのです。全能の神が、母親がいなければ何もできない、無力な赤ちゃんの姿でマリアの腕に抱かれているのです。それが、クリスマスの出来事なのです。

それは、神が文字通り徹頭徹尾「人間と共に」おられることを示しています。もう一度、使徒パウロの言葉を引用したいと思います。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思われず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」。これが、クリスマスの出来事を振り返ってパウロが書いている言葉です。「かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」とパウロは言っているのですが、ごく当たり前の人間と同じように、赤ちゃんとして生まれ、母親の世話になりながら育っていくというところまで、普通の人間と同じなのです。

もう一度、ヨハネ福音書の序文に戻りますが、1章の4節には、「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とあります。更に5節には「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。ここにある記述は、暗い夜に輝くベツレヘムの星とイメージが重なります。クリスマスは明るい太陽の光のもとで起こった出来事ではなく、暗い夜に星の光のもとで起こった出来事であるというイメージが強いのですが、そのようなイメージにぴったりの記述です。

しかし、ここで言われているのは、単にそのような風景のことではないのです。人間となられた神、イエス・キリストは、「人間を生かす命」であり、「人間を導く光」だと言われているのです。しかし、ここにある「暗闇」とはいったい何のことでしょう。それは、この世界を示しています。それだけではなく、「暗闇」とはわたしたちの心の奥の暗闇も示しています。

無論、誰もが知っているように、この世界は暗闇だけではありません。わたしたちに希望や勇気を与えてくれるようなことも、確かにこの世界にはありますし、わたしたち自身の心も、無論、暗闇で覆われているわけではありません。喜びもありますし、楽しみもあるのです。しかし、そうした希望、勇気、喜び、楽しみを与えてくれる出来事と並んで、そうしたものを一瞬のうちに凍らせてしまうような暗い出来事もあるのです。この世界にも、わたしたちの心の中にも。そして、いったんそのような闇がこの世界を覆うとき、あるいはわたしたちの心を覆うとき、わたちしちはもはや楽観的な見方はできなくなるのです。暗闇はどんな片隅にあったにしても、いったんそこに目を向ければ、その暗闇は全体を覆うようになります。

しかし、そのような暗闇で光が輝いているとヨハネは言います。かつて預言者のイザヤも、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語っていました。「神が人間となり、人間として、人間の間に住まわれている」という事実が、その光なのです。「インマヌエル」、つまり、神がわたしたちと共にいてくださること、しかも、わたしたちと同じように無力な赤ちゃんとしてこの世に生を受け、この世を人間として生きられた神が、わたしたちと共にいてくださるという事実こそが、その光なのです。そして、その事実は、この世界でも、わたしたちの心の中でも、消えることのない光として輝いているのです。

この世界が、あるいはわたしたちが、その事実から目をそらして再び暗闇に覆われてしまうということはありえるでしょう。しかし、そうではあっても、「光は暗闇の中で輝いている」という事実には、いささかの変わりもないのです。神が人間と共にいてくださるという事実、神がこの世界の中に、またわたしたちの心の中にもいてくださる、という事実は、何があっても揺らぐことはないのです。それが、クリスマスという出来事だったからです。

インマヌエル、「神がわたしたちと共に」、それがクリスマスの出来事が持っている意味なのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年12月25日 聖降誕日聖餐礼拝。鈴木浩先生はルーテル学院大学・日本ルーテル神学校歴史神学教授。付属ルター研究所所長。日本福音ルーテル教会教師会長)