たより巻頭言『「それは愛」(野村克也監督)』 大柴 譲治

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 (1コリント13:13)


先日テレビで野村克也監督(現東北楽天ゴールデンイーグルス)のインタビュー番組を見た。その個性的な発言からこれまでも興味を感じていたが、野村監督がたゆまぬ努力によって自己独自のスタイルを確立した人物であることを改めて知った。キャッチャーとして緻密なデータに基づいた分析と相手バッターやピッチャーの心理を巧みに読み取りながら、ブツブツとボヤクことでバッターボックスに立った相手選手を心理的に動揺させるという手を使いながらも泥臭い野球をしてきた人である。番組には野村哲学とも呼ぶべきものが描かれていて大変に興味深かった(「牧師の一週間は説教のネタ探しである」とはある牧師の弁)。

「人生の最大の敵、それは『鈍感』である」とは鋭い指摘である。監督は野球を語りながら人間の生き方そのものを語っている。「一芸に秀でる」ということはすべてに通じることであるのだ。監督はある時、試合中に選手たちを呼び集め、「なぜ人間が存在しているか考えてみろ。生きるため、存在するために存在するのだ」と鼓舞している。野球の次元を遙かに超えたところを指し示しつつ選手自身に考えさせるよう促しながら語っているのである。真の教育者である。

「『失敗』と書いて『成長』と読むことにしている」という言葉にも感心した。大いなる励ましの言葉である。監督自らが失敗を積み重ねる中で、その悔しさをバネにして成長してきたということがよく分かる。それにしても野村監督は、どこからそのような失敗を乗り越えてゆくしぶとさを得てきたのだろうか。それは愛である。選手を育てるのに一番大切なのは何かと問われて監督は「それは愛情である」と即座に答えていた。自分が今あるのは自分を信じ、支えてくれた母親の愛があればこそだったと言う。愛されたからこそ愛することができるのである。

野球が好きで好きでたまらないということが画面から伝わってきた。好きこそものの上手なれ、である。自分をとことん表現できるものと出会えた者は幸いである。「鉄人」と呼ばれた広島東洋カープの衣笠祥雄選手の引退試合でのスピーチ第一声を想起する。「私に野球を与えてくれた神さまに感謝します」。これも何とすごい言葉であろうか。

6/29(月)の早朝に池宮裕姉が84歳のご生涯を終えて、ご家族の見守る中で安らかに天に召された。4/5(日)には守屋茂枝姉が90歳で、4 /18(土)には園山繁雄兄が89歳で天の召しを受けられた。思い起こすのはやはり、その方々の愛である。ご遺族に慰めを祈ると共に、私たちに与えられた信仰者の交わりを感謝し、神を讃美するものでありたい。

soli deo gloria!

(2009年7月号)