説教『言は肉となって』   石居基夫

 クリスマス、おめでとうございます。お招きいただきまして、今日はこの武蔵野でクリスマスの喜びを共にさせていただくことを大変うれしく思っております。もういろいろな意味で、私がここに過ごした時とは違っているのですけれど、やはり懐かしく、この場所に戻ってくると、無条件で「ただいま」ということばの出ることです。

イエスさまの誕生。そのクリスマスの出来事について、今日お集りいただいている皆さんは、その様子を自然に心に思い起こされることではないかと思います。

 

約二千年前、ベツレヘムの厩のなか、母マリアとヨセフに見守られ飼い葉桶に寝かされた幼児イエスさま。羊飼いたちが天使から救い主の誕生を知らされ、また東方の博士たちがユダヤの新しい王の誕生を星の導きに得て、このイエスさまを礼拝におとずれたこと。

 

マタイやルカに記されたクリスマスの出来事を伝える物語は、私たちにこのクリスマスの恵み、救いとは何かということをそれぞれに伝えています。それは、町中のクリスマスの華やかさ賑わいにも拘らず、実は私たちのなかに隠されている貧しさやみすぼらしさ、人間の弱さに向けて、神様のまなざしが注がれていることを伝えていることだろう。私たちの醜さや罪の渦巻く闇の中に神様の導きがあることを示されるのです。イエスさまご自身が、宿屋にさえ居場所を得ることが出来ず、臭く汚れきった家畜小屋の中でお生まれになったことで、私たちがあまり目を向けたくはない暗い部分、私たち自身のなかに巣食う闇の只中に、イエスさまがおいでくださったことを知らされるのです。

 

じっさい、先日もパキスタンで大勢の子どもたちのいのちを奪うという何ともいたたまれない事件がおこりました。なんとかミクスなどと言って少し景気が良くなったのかどうか分かりませんが、自分たちは、きっとそうした世界の遠い場所の出来事には目をつぶって過ごしていける。でも、そうして目をつぶろうとする私たちは、だれかのいのちを奪うほどの罪や暗やみが、決して遠い場所のことではなくて、私たち自身の中に巣食っている問題なのでないかと知っているはずなのです。

 

イエスさまがお生れになられたとき、ヘロデ王がこれを恐れて、ベツレヘム付近一体の2歳以下の男の子を殺したと聖書は記しています。イエスさまはなんとか身をエジプトに寄せて逃れたのです。その出来事のなかにも、イエスさまが、誰とともにあるお方なのかということを知らされるのです。

私たちは、このクリスマスに誰とともに生き、何を生きようとしているものなのだろう。

 

いや、しかし、私たち自身がどのようなものであろうとも、クリスマスは、私たちへの神様の出来事なのです。主イエスの誕生は、何を私たちにもたらすものなのか。クリスマスの本当の喜びに深く与りたいと思うのです。

 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。

 

ヨハネ福音書は、大変格調たかい表現をもって、神と、そのことばとしてのキリストとの深い関係をあらわします。

 

 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった

 

すべてをお創りになられ、また、私たちにいのちを与えられる神が、私たちの造り主、まことの主であることが示されます。(私たちは、自分の人生の主でありたいのです。自分が自分の人生の計画を実現したいと思うのです。しかし、その私たちに向けて私たちの本当の主は誰か宣言するのです。)そして、特に「神のことば」としてのキリストが、私たちすべてのいのちの源であり、また、そのいのちの光であると示されています。

 

この光は、私たちの暗やみを照らすいのちの光。クリスマスは、このいのちの光が私たちにやってくる出来事だと言えるのでしょう。この光に照らされて、私たちは私たち自身が何者であるのか、どんな深い暗闇を持っているのか、そこにたたずんでいるのか、あからさまにされるに違いありません。

このいのちの光は、すなわち神のみことばです。そのみことばのもとに、私たち自身の姿があからさまになる。

 

たとえば、おそらく何回となく聞いてきたルカ福音書10章にあるたとえ。私にとっては、教会学校の夏期学校でスタンツをしておそわったものです。困っている人を見たら、何をおいてもその人へ駆け寄っていったあの善きサマリア人のように、「あなたもいって同じようにせよ」と、私たちにみことばは語りかけられるのです。

でも、そのみことばによって、私たちは、そのみことばには生きていない自分を知らされるのです。あの時も、この時も、私が本当に大切にすべき神様の招きの声に聞くことが出来ず、自分の身を守り、自分の願いと希望、人々の賞賛の声を求めるように、あの祭司やレビ人のように道の向こう側を歩んできたのではないのか。そういう自分の存在が神様の前にあからさまになる。

いのちの光が照らし出すのは、そういう私自身の姿なのです。

 

神さまのみことばは、私たちのありようを照らし出す。そうして、私たちが何者にすぎないかということをあからさまに知らしめる。

 

けれども、それでおわらないのです。このヨハネはさらに言うのです。

 

 ことばは肉となって私たちの間に宿られた。

 

私たちが何者でしかないのかを神様の方はとうにご存知なのです。けれど、それにも拘らず、神様は私たち一人ひとりを愛し、ご自分の大切な子どもとして、新たに生きるようにしてくださる。放っておかれないのです。黙って遠くにおられることがないのです。駆け寄り、私たちを抱きしめ、もう一度生きるようにと私たちを新たにされる。それがクリスマスのできごとでした。

 

 このことばは肉となって私たちの間に宿られた。

 

みことばが私たちの内に働き、私たちを新たにする。神様のみ心を生きるようにもう一度立ち上がらせてくださる。その恵みがキリストを通して、私たちへの確かな語りかけとなり、私たちのうちに働く神のことば、力となることばとなった。福音書記者ヨハネはその証人でした。裏切ったあのペトロたちも、迫害者パウロさえもこのみことばによってとらえられ新しくされたのでした。

 

先週の日曜日、ある新聞に絵本作家のいとうひろしさんのことが紹介されました。私と同世代の作家ですけれども、「ルラルさんのにわ」とか「ルラルさんのほんだな」など、ルラルさんシリーズが知られています。でも、きっと一番は、おじいちゃんと孫の交流を描いた、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という絵本です。その記事でもその本のことが取り上げられていました。

ちいさな子どもが成長し、その世界を少しずつ広げて、いろいろな経験をする。難しい問題にであう。だから時には泣いて帰ってくることもある。そうすると、おじいちゃんがなにも聞かずに、とにかく「大丈夫、だいじょうぶ」と言ってくれる。そのことばで、大丈夫になる。

いとうさんは、こどもにはそういう根拠のない自信をあたえる関係が大事だという。母親はね、泣いて帰った子どもをみると、どうしたのかと理由を尋ね、なにがわるかったのかとか、どうしたらいいのかとか、いろいろというでしょう。でも、泣いているということをそのまま受け止めてくれて、大丈夫といってくれるおじいちゃんの存在。そしてそのことばが子どもの生きることを支える力となるのじゃないか。いとうひろしさんは自身の祖父母との体験をもとにしながら、そんな思いを絵本にしたと紹介されていました。

これを読んで思ったのです。ああ、そうだ。神様は無条件に「大丈夫」ということばを私たちにあたえてくださった。この状況のなかでも、こんな自分でも、このみことばは、私たちの生きるいのちの支え、救いとなる。キリストがお生まれになったこと。それは、なによりもこの神のみことばが私たちのために、確かに私たちの間に肉となりやどられたのです。私たちの生きるいのちに、確かな力となる。根拠のない自信ではなくて、神のことばとして、イエスさまご自身が、たしかな根拠となってくださったのです。

だから、こんな私でも、用いられ、生かされ、何事かなすものとされるのです。誰かのために、この小さな手を差し出すものとされる。だれかのそばに寄り添うものとされる。走りより、和解し、助け合う。

神はそのことばは、私たちを新しく生かす力なのです。そこに神の救いの働きがある。

 

救いの約束は、民全体に与えれる大きな喜びの約束です。それは、正義や平和、公平の実現とされています。悪や人を蝕む罪の力から、私たちが自由されることです。死もない労苦もない、涙も拭われ、なぐさめられる。それが、私たちに約束されているのです。

でも、そうした世界は、神様がたちまちにして、魔法のように私たちに与えられるものではありません。悲しみも苦しみも、やっぱりこの現実の中にある。それでも、この神の救いの出来事ははじまったのです。みことばが私たちに宿り、私たちがみことばを生きる、いやみことばに生かされるところにはじまった。神さまのみ業が私たちのうちに始められたのです。だから、今を生きる。だからここに立ち、与えられたいのちを生きる。

私たちは、私たちに働く、神のみことばを今日もいただきましょう。

 

ヨハネによる福音書 1:1-14
(2014年12月21日 10:30 A.M.  聖降誕祭主日聖餐礼拝  説教)