たより巻頭言「黙して歩む神の小羊」 大柴 譲治

「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。《 (イザヤ53:7)


ディートリッヒ・ボンヘッファーに『共に生きる生活』という本がある。これは彼が所長を務めた二つの牧師補研修所での実際の共同生活の中から生み出された「白鳥の歌《であり、霊的な洞察の書である。手にされた方も少なくないであろう。その中にキリスト者の為すべき奉仕について語られている。「謙虚という奉仕《「聴くということの奉仕《に先立って「言葉を慎むという奉仕《がその最初に置かれている。箴言が繰り返し警鐘を発しているように、交わりにおいては「口を管理すること《はとても大切な事柄である。しかしそこでボンヘッファーが言いたかったのは、さらに深い次元の事柄ではなかったか。私たちが沈黙において自分を捨てて「無《となり、自分の十字架を負ってキリストに従うということなのだ。

「受容と傾聴《は確かにコミュニケーションの要であるが、それが実現するためには「言葉を慎む/沈黙する《という前提が求められる。私たちは自分が語っている時には相手の言葉を聴いていないし、相手に耳を傾けている時には私たちの口は動いていない。口と耳とはどうやら同時には働かないもののようである。現実には私たちは、沈黙の中で相手に傾聴しているように見えても自分の中だけで喧喧諤諤と独白(モノローグ)していることが多いようにも思う。最近の脳科学の知見によると、ものを考えている時にも私たちの頭の中では言葉が声として響いているのだそうである。真の対話(ダイアローグ)の何と困難なことか。対話において語りと傾聴とは、自然な呼吸のリズムに合わせ、沈黙の間を保ちながら、交互に起こる。

私たちは確かに自分の心の声に耳を傾けてくれる存在を求めている。「ねえねえお母さん、きいてきいて《と子供が親の応答を求めるように、真の応答を求める気持ちが私たちの中には確かにある。太初から人間は互いに応答し合うべく造られた「関係的存在《なのだ。キリストが屠り場に引かれる小羊のように自ら黙して口を開かれなかったのは、私たちの声にならない声にそっと耳を澄ませるためだったのではないか。その沈黙の歩みの中には徹底して神と人との対話(ダイアローグ)に生きられた「人の子《の姿が浮かび上がってくる。

今は四旬節(レント)。礼拝で用いられる典礼色は悲しみと悔い改め、そして王の高貴さを表す「紫《。黙して十字架へと歩まれた「神の小羊《の姿を共に心に刻みたい。

(2010年 3月号)