説教「澄み切った青空〜悲しみを超えて」   大柴譲治

召天者記念主日礼拝にあたって

本日は召天者記念主日。毎年11月の第一日曜日に私たちは召天者を覚えて礼拝を守っています。週報には召天者名簿を挾ませていただきました。そこには269名のお名前が記されています。特に本日は「教会の祈り」でその中からこの10年間に天に召された81名のお名前を覚えて祈らせていただきます。ご案内を差し上げましたのでご遺族も何組かご出席くださっています。また、あの聖卓の前には二冊の召天者記念アルバムが置かれています。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りしながら、み言に聴いてまいりましょう。

 

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

本日与えられた福音書はイエスさまの山上の説教の冒頭の言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。原語のギリシャ語では「幸いである」という語が最初に来ていますから、こういう風に訳すことができると思います。「おめでとう、心の貧しい人々! 天国は(既に)あなたがたのもの。おめでとう、悲しんでいる人々! あなたたちは必ず慰められる」。

生きることは実に辛く悲しいことであると思わずにはいられません。先週、私たちはこの場所でAさんのご葬儀を執り行いました。Aさんは膵臓癌のため50代の若さでご家族の見守る中、ご自宅でこの地上でのご生涯を終えて天に帰ってゆかれたのです。AさんはBご夫妻のご子息です。生まれてすぐ東京教会で本田伝喜先生より幼児洗礼を受け、少年時にJELC八幡教会からご家族と共にこのJELCむさしの教会に転入されました。

学生時代には英語サークルの部長としても活躍。大学卒業後はバリバリの商社マンとして、北米に10年以上も駐在しながら、家族を愛し、仕事を愛し、ゴルフを愛し、生きることを喜びながら充実した日々を送っていました。この7月に体調不良のため近隣の病院に行くと、病いが発見されて即入院となります。病院で一月半治療を受けた後、ご本人の強い希望で9月からはご自宅で在宅ケアを受けながら闘病を続けられたのです。生来の頑張り屋さんだったこともあり、「自分はやりたいことがたくさんある。必ず治って職場に復帰する」という固い決意の中、前を向き、上を向いて、歯を食いしばって最後までご家族と共に頑張り抜かれたのです。

三週間ほどは食事も喉を通らなくなっていたにもかかわらず、召される二時間前にも「トイレに行きたい」と立って歩かれたということでした。現職の部長であったこともあり、葬儀には前夜式と告別式を合わせて500名を越す参列者がありました。会社の上司や同僚も大勢参列してくださり、その中から4人の方が万感の思いを込めて故人の思い出を語ってくださいましたし、喪主として奥さまがご挨拶をされました。

ご子息を見送らなければならなかったご両親さまのお気持ちを思う時、私たちは胸がつぶれるような思いになります。なぜこのような辛い現実があるのか。神さまはいったいどこにはおられ、なぜ沈黙しているのか。私たちはそのような思いになるのです。生きるということは何と辛く悲しいことでありましょうか。ご葬儀の二日間はとてもよいお天気でした。空を見上げると、秋晴れの真っ青に透き通った青空が悲しいほど美しく感じました。

 

「会者定離」という言葉があります。出会った者は必ず離れてゆく定めにあるという意味の言葉です。「会うは別れの始め」とも言います。私たちはどのようなすばらしい出会いを与えられたとしても、必ず別れてゆかなければならない定めです。「咳をしても一人」と尾崎放哉は歌いましたが、別離の哀しみを思う時、つくづく人生は何と儚く、何と人間は孤独な存在であることかと思います。しかしそうであればこそ、今ここで私たち一人ひとりに与えられている一つひとつの「絆」、「人間関係」を、「かけがえのないもの」として大切にしなければならないのであろうと思うのです。

今年になりましても、Aさんの他にも、9人の方々がこの地上でのご生涯を終え、最後まで自分らしく生き抜かれて、天へと移されてゆきました。天寿を全うされた方もおられますが、若くして地上のご生涯を終えなければならなかった方もおられます。ヨブが言うように皆、「裸で母の胎を出て、裸でかしこに帰って行かれた」のです。私たちは生まれた時も裸であれば死ぬ時も裸です。何も持っては行けない。否、最近私は「一つだけ持ってゆくことができるものがあるのではないか」と考えるようになってまいりました。それは自分自身の「心」です。「魂」または「霊」、あるいは「自分自身」と呼んでもよいのかもしれません。

 

「モノ」は何一つ持ってゆくことはできないのですが、「自分自身の心」は持ってゆける。だからこそ私たちは、自分自身の心を豊かにしてこの地上の生をまとめてゆく(終えてゆく)必要があるのだと強く思わされるようになりました。それも、「何かをすること(Doing)」によってではなく、今ここで私たちに与えられている「存在そのもの(Being)」に焦点を当てることを通して、心を豊かにしてゆく必要があるのです。ちょうどカール・グスタフ・ユングが「人生の午後の時間は、魂を豊かにしてゆくための時間」と言っているように、魂を豊かにする必要があるのだと思うのです。ではどうすれば魂を豊かにすることができるのか。

 

悲しみのどん底に降りたってくださったキリスト

聖書は、現実の中で生きることの困難さと悲しみを深く味わう私たちに対して、私たちの悲嘆と絶望の深みに降り立ってくださった方がおられると告げています。そのような嘆きの時にも私たちは独りぼっちではない。それが私たちの主イエス・キリストです。「咳をしてもひとり」ではない。「咳をしてもふたり」「キリストと共にふたり」なのです。

そして今日私たちは、そのお方から祝福の言葉を聴いています。「おめでとう、心の貧しい者たちよ! 天国は(既に)あなたがたのものなのだ。おめでとう、悲しんでいる者たちよ! あなたたちは必ず慰められる」という言葉を。それは確かな声として私たちに迫ってきます。宮澤賢治ではないですが、人生とはこのキリストの祝福の言葉を聴くためにある「祝祭の日々」なのではないでしょうか。この後で私たちは聖餐式、主の祝宴に与りますが、私たちのためにご自身の身体と血、すべてを与えてくださったお方が私たちを祝福してくださっているのです。

「おめでとう、心の貧しい者たちよ! 天国は既にあなたがたのものである。おめでとう、悲しんでいる者たちよ! あなたたちは必ず慰められる」と。嘆きの深淵の中にも主が共にいましたもうが故に、私たちは大丈夫なのです。

 

改めて日野原重明先生(上智大学グリーフケア研究所名誉所長)が語られた言葉を想起します。悲嘆にある人に接する時に私たちに必要なのは「か・え・な・い・心」であると先生は言われます。それは「か:飾らず、え:偉ぶらず、な:慰めず、い:一緒にいる」姿勢です。それはキリストご自身が私たちに示してくださった深い「あわれみの心」でもありました。

 

「澄み切った青空」〜悲しみを超えて

9月の初めに上智大学を会場に開かれた「日本スピリチュアルケア学会」の全国大会の主題講演で、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが柏木哲夫先生のエピソードを紹介しておられました。私の心に深く響いたのでご紹介させていただきます。柏木摂夫先生はクリスチャン精神科医として長く大阪の淀川キリスト教病院のホスピス長をされた方としてよく知られています。いつも笑顔とユーモアをとても大切にしておられる方です。

柏木先生がいつもと同じようにホスピス病棟を回って「今日は調子はいかがですか」と患者さんたちに声をかけていた時のことです。ある男性の末期ガンの患者さんがニコニコと笑いながら「今の私の気持ちはこれです」と言って柏木先生にこういう形の一枚の青い色紙を示されたそうです(ここで色紙を示す)。 色紙は通常正方形ですが、その「四つの角」が切り取られていました(「正八角形」というのでしょうか)。

どんな意味かお分かりになりますか。そうです、「隅切った(澄み切った)青空」という意味だと言うのです。「アッ、なるほど」と思いました。このような上質のウィットとユーモアは私たちの気持ちを和ませ、切り替えてくれるということがよく分かります。「澄みきった青空」。私たちの悲しみの現実にかかわらず、その中で私たちの思いをフッと私たちの上に拡がる青空に向かせてくれるいい話だと思いました。先ほどAさんのご葬儀の時にはとても青空がまぶしかった話をいたしました。

舞台裏を申し上げますとこれは私が作りました。これを作るために少し苦労しました。四隅を別々に切ると形がバラバラになってしまい、バランスが崩れてキレイに見えないのです。そこでどうしたかというと、色紙を四つに折って「隅」を重ねて切り、それを拡げるとこのようにキレイな形になったのです。私はこれを見ていてハッとさせられました。

 

ここからは柳田邦男さんが言わなかったことで私自身が気づかされた話です。先ほど四隅をキレイにそろえるために四つに折って切ったことを申し上げましたが、拡げてみるとこの「澄みきった青空」の真ん中に「十字の折れ線」がついているではありませんか。四つに折りましたから当たり前のことです。そこにはくっきりとキリストの十字架が現れたように感じたのです。私たちのために天から降ってこの地上に降り立ち、人間の闇のどん底を歩み、悲しみと苦しみ、罪と恥のすべてを背負って私たちのために、私たちに代わってあの十字架に架かってくださったお方がおられる。

このお方がいるからこそ、深いあわれみの心、「かえない心」を持つこのキリストがいてくださるから、私たちはどのような時でも心の中に澄みきった青空を仰ぐことができるのだということに気づかされたのです。269名の召天者の方々は、キリストという青空を仰いで生き、その青空を仰ぎ、そこにすべてを委ねてこの地上の生を終えてゆかれた方々なのです。

 

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとブドウ酒を差し出し、私たちをその祝宴へと招いてくださるお方がいます。この聖卓は、こちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っています。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主です。私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。

なぜかというと、生きるとしても死ぬとしても私たちは主のものだからです。このキリストの祝宴は終わりの日の先取りでもあります。ここにこそ私たちが悲しみを超える道が備えられている。天が開け、天の後には虹が置かれ、そこには澄みきった青空が拡がっています。確かな主の声が響いています。「おめでとう、心の貧しい人々! 天国は既にあなたがたのものなのだ。おめでとう、悲しんでいる人々! あなたたちは必ず慰められる」。アーメン。

マタイによる福音書 5:1-12
(2014年11月2日 召天者記念主日聖餐礼拝説教)