説教 「打ち砕かれた魂」 大柴譲治

ルカによる福音書 20:9-19

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

神の愚かさ

ぶどう園と農夫の譬えを読むと、私たちは何か人間の闇の部分を見せつけられるような気がして暗澹たる思いにさせられます。この譬えはぶどう園は神の民イスラエル(または神の都エルサレム)、ぶどう園の主人は神、僕たちは神から派遣された預言者たち、息子はイエスさまのことを指すのは明らかでありましょう。

この、主人のぶどう園を農夫たちが私物化し、自分のものとしてしまおうという譬えは、私たち人間の強欲さ、傲慢さ、自己中心性といったものを明らかにしています。それと同時に何度も裏切られながらも三人も僕を送り、最後には自分の跡取りである愛する息子を底に派遣するぶどう園の主人の人のよさ、甘さ、おめでたさなども強く印象に残ります。それほど信頼していたイスラエルに裏切られても裏切られてもイスラエルを見捨てない神の愛の深さをこそ、私たちはここで見てゆくべきなのでありましょう。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とヨハネ3:16にある通りです。

先週は神崎伸先生から放蕩息子の譬えについての説教を聴きましたが、放蕩息子の父親の息子を信頼し、愛し続けるその親馬鹿とも言えるその姿を思い起こします。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1コリント1:25)とパウロが言う時、愚直なほどまっすぐな神の愛が人間のずる賢さを凌駕し、人間を造り変える力を持つということを意味しているに違いありません。

この「ぶどう園と農夫の譬え」をイエスから聞いた律法学者や祭司長たち、つまりユダヤ教の指導者階級にあるリーダーたちは、「そんなことがあってはなりません」と口をそろえて言いました。そこのところをもう一度お読みしたいと思います。17-19節です。

イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

この詩編118:22からの引用です。

(22)家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。
(23)これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。
(24)今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
(25)どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

「隅の親石」「隅の頭石」というのは、壁と壁とをつなぐ角の石、あるいは入口を固める重要な要石を指しています。イスラエルの民に裏切られ、棄てられ、十字架の上で殺されてゆくイエス・キリストこそ、神の救いのご計画の中では「隅の親石」として中心的な役割を果たしてゆくということが示されています。その親石に律法学者や祭司長たちは躓いてゆくのです。イエスさまの「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」という言葉を聞いて、彼らはその譬えが自分たちに対する当てつけであるということが分かり、激怒するのです。

「怒り」について

今、いとすぎでは「聖書の中の感情」という主題で聖書研究を行っていますが、人間の感情というものに焦点を当てて御言葉を思い巡らしてみると、なかなか興味深いものがあります。

「怒り」というのは実は私たちが自分を脅かすもの(敵)に対して感じる感情であり、自分を守ろうとする時に敵と鬪うエネルギーを瞬時に自らの内に蓄えるための感情であると考えられます。怒りっぽい人というのは内に高いエネルギーを宿した人であり、「エネルギーレベルの高い人」であると言えるかもしれません。

「怒り」に関連して思い起こすのは、ヤコブ書の1:19-20です。そこには次のような言葉があります。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」。

「怒るのに遅い」というのは、私たち人間の怒りが簡単にエスカレートしてしまう現実の中で語られています。「人の怒りは神の義を実現しないから」とありますが、怒る人は自分が神のようになってしまい、自分は神の義を実現しているのだという錯覚をしてしまうのです。ちょうど、神のぶどう園が自分たちのものであると錯覚をした農夫たちと同じようになるのです。「悲しみ」という感情がしばしば人の心を開き、人を深い所で連帯させる働きをするのに対して、「怒り」は人を頑なにし、人を孤立させてゆく働きをすることが多いようです。そのことは私たちが怒っている人には容易に近寄れない、ということからも分かります。傷つけられてしまうからです。そのような場面で言葉を発するのは逆効果であり、確かに「沈黙は金」です。

その意味で、「怒り」は暴力と同じです。それは通常人々の心を閉ざし、頑なにします。怒りによっては私たちは心を変えようとはしないのです。恐れや恨みや反発を生じるのみです。イソップ物語の『北風と太陽』ではないですが、人間が心の外套(殼)を脱ぐのは力づくではなく、暖かい日差しに照らされた時なのです。

そのように見てゆく時、イエスさまはなぜ律法学者や祭司長たちの怒りをたき付けるような言葉を向けていったのでしょうか。火に油を注ぐことになってゆくのです。かえって彼らが反発し、頑なになってゆくだけであるということを知らなかったのでしょうか。そのようなはずはありません。イエスさまほど人間の心の動きをよくご存知の方はおられませんでした。それだからこそ、イエスさまは「放蕩息子の譬え」や「よきサマリア人の譬え」など、人の心に響く譬えを語ることができたのです(イエスさまは譬えの天才だった)。イエスさまは「人の心を読むことができた」のです。鋭く心を見抜くことができた。私はイエスさまが家作りが棄てた石が隅の親石になった」という言葉を言う前に、ルカは「イエスは彼らを見つめて言われた」(17節)と記していますが、この主のまなざしの鋭さにドキッといたします。主は私たちの心の動きを誰よりもよくご存知なのです。

神のぶどう園を私物化してしまうような、傲慢で強欲で自己中心的な人間の心をよくご存知なのです。頑なで敵意と憎悪をイエスに向ける人間の罪をご存知なのです。それを十分に知った上で、その敵の罪をも背負って十字架に架かってゆかれた。そして十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ23:34)。怒りを持ってではなく、赦しととりなしの祈りをもって自分を十字架に架ける者の救いを祈られたのです。

ここに真実の愛があります。ここに「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」と語られている預言の成就があります。この十字架の出来事の中にこそ、「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」という主が語られた言葉の本当の意味があります。この愛に触れた時、私たちは頑な者から、打ち砕かれ、悔い改めの涙を流す者へと造り変えられるのです。本日の第一日課でイザヤが語っていた通りです。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(34:19)。

「雷体験」の必要性

しかし、あえてもう一歩踏み込んで考えてみたいのです。怒りと憎悪に燃えた人は、自分の感情しか見えていないために、そのような愛の言葉を聞いても何も感じないのではないかとも思われます。怒りそのものが打ち砕かれ、相対化される必要があるのです。私はそれを「雷体験」とでも呼びたいと思います。サムエル記下12章でダビデが預言者ナタンによって自分の部下の妻を盗み取ったことを「その男はあなただ」と言って非難する場面を思い起こします。あるいは、使徒言行録9章のキリスト教の迫害者サウロが復活のキリストに「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけられる回心の場面を思い起こします。あるいは、宗教改革者のマルティン・ルターが雷に打たれるという体験を通して修道院に入る決意をしたことを思い起こします。そのように見てくると、私には、創世記の冒頭に記された、神の「光あれ」という天地創造を開始した最初の言葉は、そのような雷体験をも意味するのではないかとも思えてきます。

突如の雷体験によって、私たちは自分が神ではないということを徹底的に知らされる必要があるのです。人の怒りは神の義を実現しないということをトコトン知る必要がある。そこで怒りは打ち砕かれる必要があるのです。私たちが人生において雷に打たれるような体験をすることは、実は神の恵みなのです。

雷によって打ち砕かれた者だけが、パウロの次のような言葉を理解することが出来ましょう。2コリント5章です。「(17)だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(18)これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。(19)つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(20)ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。(21)罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5:17-21)。

詩編51編

今はレント、主の十字架の歩みを覚える季節です。典礼色は悔い改めを表す色、また王の色でもある紫です。詩編51編を最後にお読みしたて終わりたいと思います。これは、ダビデの詩編の一つで、ダビデが自分の部下ウリヤの妻バト・シェバと通じたので、預言者ナタンがダビデのもとに来て罪を厳しく糾弾したときに歌われたものです。その一部は毎週の礼拝の奉献唱でも歌われています。

(3)神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
(4)わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。

(5)あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
(6)あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、
御目に悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく、
あなたの裁きに誤りはありません。

(7)わたしは咎のうちに産み落とされ、
母がわたしを身ごもったときも
わたしは罪のうちにあったのです。
(8)あなたは秘儀ではなくまことを望み、
秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
(9)ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。
(10)喜び祝う声を聞かせてください、
あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
(11)わたしの罪に御顔を向けず、
咎をことごとくぬぐってください。

(12)神よ、わたしの内に清い心を創造し、
新しく確かな霊を授けてください。
(13)御前からわたしを退けず、
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
(14)御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、
自由の霊によって支えてください。

(15)わたしはあなたの道を教えます、
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

(16)神よ、わたしの救いの神よ、
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
(17)主よ、わたしの唇を開いてください、
この口はあなたの賛美を歌います。

(18)もしいけにえがあなたに喜ばれ、
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
(19)しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を、
神よ、あなたは侮られません。

(20)御旨のままにシオンを恵み、
エルサレムの城壁を築いてください。
(21)そのときには、正しいいけにえも、
焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ
そのときには、あなたの祭壇に、
雄牛がささげられるでしょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年3月25日 四旬節第五主日礼拝)