説教「平安あれ」 神学校3年生 秋久潤

2014年4月27日(日)
ルーテルむさしの教会 復活後第一主日
神学校3年生 秋久潤
使徒言行録2章22-32節
ペトロの手紙一 1章3-9節
ヨハネによる福音書20章19-23節

説教「平安あれ」

私たちの父なる神と、主イエスキリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週の日曜日、私たちは、「ハレルヤ!」という喜びの声を上げて、ご一緒に主の復活をお祝い致しました。この復活は、主イエスが、私たちに与えてくださる、新しい命。私たちが洗礼を受けることによって、主イエスと共に死に、そして、イエスの復活によって新しい命を得るのだ。そのことを記念するのがイースターでした。この世的な目から見れば、リーダーであるイエス・キリストを失い、夢破れて、故郷ガリラヤに帰る弟子たちが、主イエスご自身の命令によって、ガリラヤに帰るのではなく、新しく行くのだ、そのように、私たちは先週の礼拝で派遣をされ、一週間経ち、またこの場所に集まっています。

毎週一回、日曜日に礼拝に集まる。それは、呼吸をすることと似ているのではないでしょうか。息を吐いて、吸う。呼吸をしなければ人は生きていけない。礼拝の終わりに派遣されることによって、私たちはこの、教会の中から外へと遣わされていく。そして一週間経つと、またこの教会の中に吸い込まれていく。その呼吸を繰り返すことが、私たちの命の息、キリストと共に生きる者の呼吸ではないかなと思うのです。

本日このあとは、イースターコンサートが行われ、そこでは様々な楽器の音が奏でられます。楽器の音も、空気を通さなければ、聴くことができない。空気のない宇宙では、音は聞こえません。管楽器を吹くときの口から出る呼吸、弦楽器を鳴らすときの弦の振動、あるいは歌声、そしてそれを聴く私たちの鼓膜や、お腹で聴くという人もいます。全て、空気の震え。神の息が、私たちに伝わってくる。そのようなことではないのかなぁと思うのです。

本日与えられました聖書には、聖霊を受けなさい、という言葉が出て参りました。聖霊と聴くと、ペンテコステ、もうちょっと先の出来事ではないのかなぁと教会に来慣れている方は思われるかも知れません。まだイースターなのだから今は復活の時期ではないか。ですがヨハネ福音書は、復活のイエスを語るときに、ちょこちょこと、そこには聖霊の働きというものが登場してくるのです。

教会に集まる私たちと同じように、弟子たちは、イースターの日の夕方、一つの家に集まっていました。そこで彼らを支配していたのは、復活の喜びではなく、恐れだったのです。私たちも、礼拝に出て、イースターの喜びを共に分かち合う。何か良いことが起こったのかもしれない。だけど、実際に家に帰ってみると、はて、私の生活と、主イエス・キリストの復活はどういう関係があるのだろうかと、まあ、思ったりすることがあるかもしれません。この家に集まっていた弟子たちも、マグダラのマリアから「主イエスが復活したのです」という知らせを聞いていたんですね。その日の夕方とある。その日の夕方。ですが朝にはマグダラのマリアは一人、空になった墓の前で佇んでいた。そこにペトロとヨハネも駆けつけたが、復活の主と出会えたのは、その二人の男弟子が帰ってしまって、一人泣いていた、そのマリアのもとに、主イエスが現れた。ですから、マリア以外に、その主イエスの復活のことを証言できる人はいないのです。いくら主イエスが復活されたという喜びを持って、弟子たちの集まっていた家に行っても、弟子たちはだれも信じなかったのです。むしろ、家には鍵を掛けていた。なぜなら、ユダヤ人たちを恐れていたからとあります。弟子たちもユダヤ人なんです。ですが、自分たちはもともとユダヤ今日を信じていたが、イエス、ナザレのイエスという人物を、私たちの神から遣わされた子だと、ついていくことによって、同胞のユダヤ人たちから睨まれるようになる。しかも、力を持った主イエスは、十字架に掛かられて死んでしまった。これから私たちはどうしていこうか。まあそのような恐れがあったのでしょう。

わたしたちは恐れを抱いたとき、誰か、ある人に対して気まずいなあ、悪いことをしてしまったな、あるいは悪いことをされたな、と思ったとき、その人と、どのような関係になるでしょうか。おそらく、身を隠す、ということを行うのではないでしょうか。本日、ルーテル学院の学長になられました江藤直純先生が、私の説教の指導を今期してくださっているんですけれども、今日、聴きに来てくださったんです。ボスが来てくださった。でも、私としては、説教の準備がこれでいいのかなぁという恐れがあるわけです、喋りながらも。そうすると、来てくださったにも関わらず、隠れていたくなる、コソコソとしていたくなる。あるいは、何か言葉数を多くすることによって、ごまかそうとする。隠れやごまかし、それが、人が恐れを抱いたときにやってしまうことではないでしょうか。

実は今日お読みした箇所というのは、創世記の3章、あの蛇がアダムとイブを誘惑した箇所と驚くほど似ているのです。神が、アダムに「好みは取って食べてはならない。なぜなら神と同じような者になるからだ」と言って禁じられた実を、蛇は女に、「食べてみたらどう?」とそそのかす。そして実際に、食べてしまうと、まず二人が行ったことは、自分たちが裸であったことに気付いたんです。そして、恥ずかしい部分があらわになっているとして、いちじくの葉を綴り合わせて、腰を蔽った、とあります。そこで生まれてきたのは「恥」であり、自分の恥ずかしい部分を隠そうとする。そして、父なる神が園の中をあるいている、それは風の吹くときという言葉がありました。その、歩いている音が聞こえてくると、二人は、園の木の間に隠れた、とあるんです。自分の恥ずかしいところも隠したいし、神からも隠れていたい。神は二人に対して、「どこにいるのか」と語りかけます。それは神の立場から見れば、二人が見えなくなってしまった、どこにいるんだアダムとイブ、という呼びかけだったかもしれない。だけど二人にとってはそれは、恐ろしい声だったのです。自分たちを殺しに来る声かもしれない。ああ、ばれたらどうしよう。そして、二人の実を食べたと言うことが父なる神に知られてしまう。「なんということをしたのだ」。叱責が始まるんです。すると、アダムがやったことは、「あなたが与えてくれたあの女が、私に実を与えたので、私は実を食べたんです」と、責任転嫁をする。また逃れようとするんです。神から逆らうこと、そして責任転嫁をすること、これが創世記が現す、罪。私たちが恐れを抱くときにしてしまうことなのです。

ユダヤ人を恐れて、家の中に隠れていた弟子たち。そこに何の前置きもなく、イエスが来て、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」。ヘブライ語で「シャローム」という挨拶をされるんです。その後に、手とわき腹をお見せになった、とあります。弟子たちはそれを見て喜んだと書いてあるのですが、私は最初この聖書を見たときに、何で喜ぶのかなぁと不思議に思ったんです。死んでいた人間が目の前に現れていたら、パニックになる、驚くはずじゃないのか。しかも、その方は自分たちが裏切ったせいで、十字架に架けられた、その傷跡を見せてくるんです。普通であれば、「ああ、もしかして、私たちに復讐しに来たのだろうか。殺しに来たのではないのだろうか」と恐れるはずかもしれません。ですが、旧約聖書のときに「どこにいるのか」と語りかけ、人間たちが自分の罪によって、その神さまからの呼びかけを呪いの言葉として聴いてしまったのとは違う展開が、ここでは行われるのです。傷を見せ、そして「あなたがたに平和があるように」と言われる。傷というのは、私たちの人間の罪をまざまざとそこにあらわすものです。私たちは、イースターに主が復活しておめでとうと言います。ですけど、もし復活だけのできごとだけが起こったのであれば、それは私たちにとって、もしかしたら、お祝い事では無くなってしまうのかもしれないのです。なぜならそこには恐怖が付きまとうから。ですが、主イエスが言われた、「あなた方に平和があるように」、その赦しのことばがあるからこそ、十字架の傷を見せて頂いたことが、弟子たちにとって、救いの出来事となるのです。

赦しだけでは、私たちにとって赦しにはならない。私たちにとって、傷、主イエスに負わせた傷、私たちの罪が何なのかということを知ったときに、その主イエスの赦しとはいったい何なのかが分かるようになってくるのです。主イエスはだめ押しをするかのように、「あなた方に平和があるように」と伝え、そして、不思議なことをされるんですね。最初に、派遣をされるんです。「私の父が、私をあなたがたのもとに遣わしたように、今度は私が、あなた方を遣わす」。さらにイエスは、息をフーッと吹きかけ、個人に対してではなく、弟子「たち」に吹きかけるのです。まあ、大の大人同士で顔に息を吹きかけられたらちょっとムッとするんじゃないのかなぁと、まあコミカルなことも思ったのですが、まあ、息を吹きかけるということも、また創世記の中で、大切な役割が描かれているのです。

主なる神が、人を土から造られたとき、その鼻に、息を吹きかけられた。ここで主イエスがされているのは、恐怖によって、体は集まっているけれども、心はちりぢり、自分の恐れしか考えていない弟子たちを、再び、主イエスが真ん中に立たれる集まりとして、回復されるのです。

ペンテコステ、聖霊が送られるという出来事は、教会が造られる出来事です。この主イエスの第二の創造は、私たち個人が復活によって新しい命を得ると共に、失われた主イエスのからだ、イエスの教会が、私たちが集められることによって、復活させられていくという意味を持っているのです。

最後に主イエスは、このようなことを言います。「誰でも、誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だが、あなたがたが誰の罪であっても赦さなければ、その罪は赦されずに残る」と。まあ赦すも赦さないもあなた次第だ、誰の罪でも赦すことができる。あるいは誰の罪であっても、赦さずに放置しておくことができてしまう権威。それは、本来、人間には無いはずです。ファリサイ派の人々が、「罪を赦すこの人は一体何者だ」「お前は神なのか」と思ったかのような、その主キリストご自身の権威を、弟子たちに、託す。自分を十字架につけ、裏切った、また墓までは一生懸命走ってくるかもしれないけれども、そこで何かを感じたらまた家に帰ってしまうかもしれない、私たち、弟子たちに、その主イエスの赦しの権能を授けられるのです。「赦しなさい」と。

これは、人間の力だけでできる行為ではありません。聖霊が吹きかけられなければ、どんなに人間同士で赦そうと思っても、そこには隠しきれない限界がある。表面的には仲直りをしたように見えても、自分の心の深いところ、隠しておきたいようなところには、今なお、その相手に対する怒りや赦せないという感情がくすぶっている。私たちが罪を赦すことができるのは、何よりもまず、主イエスご自身が「あなたがたに平和があるように」「あなたがたの罪は赦された」その宣言、赦しがあるからこそ、私たちはその後に続いて、この交わりの中で、あるいは社会に出て行った後、目の前の人を赦すことができるのではないでしょうか。私たちが赦したから、その代償として赦しが得られるのではない。

とは言っても、赦せない私がいる。洗礼を受け、教会に通い続けてもなお、あの人は苦手だ。できれば隠れていたい。そのような現実も私たちにある。それは、創造され、神の愛のもとにいたにも関わらず、また、いちじくの葉を取って、自分の恥ずかしい部分を蔽ってしまう、人間の姿が、そこには今なお、根深くあるのではないのかなぁと思うのです。私たちは神から赦された、神から完全な赦しを得たとしても、なお罪人である。「義人無し。一人だに無し」。洗礼を受けても、私たちは義とされても、いまなお、罪人である。ですが、もう一つ、創世記の中には、重要なことが書かれているのです。それは、父なる神が、アダムとイブを、エデンの園から追放するときの出来事です。

父なる神は、二人に、皮の衣を造って、着させてやった。皮の衣。動物の毛皮のことです。それを造るためには、何かしらの動物の血が流されなければいけなかったでしょう。植物を切り取ってくるのとはわけが違う。それは、父なる神が裏切られたことによる、あるいは罪を犯した人間に対する怒りを抱えながらも、せっかく愛した人間たちを、自分のエデンの園から追放しなければならない、そのやるせなさ、悲しさの中で、二人に与えた皮の衣だったのです。

罪が赦されるには、血が流されなければならない。それが、旧約聖書が伝える、イスラエルの伝統です。その血を流されたのは誰か。主イエス・キリストご自身です。傷を負い、私たちの目の前に現れてくださったとき、そこにはやはり傷がついていた。血を流された。それは、私たちが罪を犯したせいで流された血であると同時に、私たちの罪を完全に赦すために流された血でもあったのです。

私たちは、週に一回、礼拝に来る。そして、最初に罪の赦し、罪の告白をして、御言葉を聴き、洗礼、聖餐へと与ってゆく。これは、主イエスご自身が私たちを新たに生まれさせるために、自分自身が変わってくださった。御言葉として、神の言葉として。そして洗礼における水において。聖餐式におけるパンとぶどう酒、からだと血とにおいて。私たちを生かすために、ご自身をお与えになる。また、息を吹きかけることによって、私たちの中に息づく霊となって私たちが教会から出て行く、神の庇護から外の世界へと出て行った後も、私たちの中で、主イエスは生き続けているのです。

先ほど私は、「全ての人は、罪人である」と申しました。その事実は、主イエス・キリストを頂いた後でも変わることがない。ですが、父なる神は、そのキリストを私たちに着させてくださった、ともあるのです。また、主・イエスキリストはここでも私たちのために変わるのです。司式者や説教者は、白いアルバを着ます。その下の中にあるのは、普通の人間、罪人が、真っ白なアルバを着る。これは、按手を受けたから、牧師だから着れる特別な服ではない。罪人である私が、主イエス・キリストから委託を受けて、主イエス・キリストご自身をあなたがたに伝える。その役目を担っている。そのことの証として、黒い私にも関わらず、その上から、真っ白な衣、キリストを着させていただく。それは、今ここにおられるお一人お一人の上にも、主イエスがご自分の体を裂いて着させてくださっている、皮の衣なのです。

「私があなた方を遣わす。」その聖霊の息吹は、私たちを赦してくださった証でもあり、また私たちを生かして、隠れたい、逃げたいと思っている、この世の恐怖へと、再び、派遣していく力なのです。そして、霊の力、それは、私たちが肉体が滅びた後も、続くのです。本日は、墓前礼拝が行われます。地上で体を失って、私はもう終わりなのだろうか、その不安やおびえがあるとき、私たちは肉体の機能はまだ残っていても、心ではもう死んだ者になりそうになる。ただ、主イエス・キリストが与えてくださる希望は、「私と共に死ぬ者は、私と共に復活する」。この希望があるからこそ、私たちは、死を乗り越えることができる。死は終わりではなく、その先がある。御国で、あの天に召された方たちと、再び祝宴を囲み、主を賛美するときが来る。この喜びが私たちに今日、告げ知らされているのです。私たちが隠したいところ、人前にどうしても表せない、できればなにかでごまかしたいような場所に、その真ん中に、主イエスは来てくださり、「あなたがたに平和があるように」「シャローム」、その赦しの言葉をかけてくださるのです。恐れるな、私はあなたと共にいる。この言葉を信じ、この一週間、主と共に歩んで参りましょう。お祈りを致します。

全能の父なる神さま、主の御名を賛美いたします。
私たちはあなたからの復活の恵みを共に与らせて下さり、そしていま、霊によってこの教会へと導かれて参りました。あなたは、私たちの真ん中に現れて下さったとき、傷ついたお姿をされていましたが、そのお姿をもってなお、私たちを赦し、本当の喜びと、安息へと導いてくださいます。私たちが赦された、この事実を以て、世へと派遣されていくことができますように。どうか、私たちをお守りお導き下さい。
いま、苦しみや絶望の中にある方に、あなたの光が届きますように。この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。