たより巻頭言「少数者」 川上範夫

私はルーテル教会で百周年というタイトルのつく二つのイベントのいずれにも参加した。

一つは1993年8月、熊本で開催された宣教百周年記念大会で、もう一つは2009年9月、三鷹で開催された神学校創立百周年式典である。いずれも心に残るものであった。だが、これらのイベントで重要なことは、これを契機に宣教を強化し教勢(礼拝出席人数、受洗者数、献金額)を高めることであった。

私は1993年の大会以来、どういうわけか教会本部や東教区の宣教運動にかかわることとなった。ともかく、1993年の宣教百周年から2009年の神学校百周年までの、おおよそ20年間、教会本部も教区も各個教会も宣教強化、教勢向上にその力を結集した。宣教フォーラム、全国伝道セミ、宣教ビジョンセンター等、多くの組織が立ちあがり、教会の現状分析、教勢不振の原因調査、教勢拡大の具体策等に取り組んだ。これらの活動に費やした時間とエネルギーは膨大なものであった。だが、それにも拘らず、全体教会も個々の教会も教勢は低下の一途をたどったのである。運動にかかわった者の一人として空しさを感じることがある。併し、教勢の低下はルーテル教会に限ったものではなく、日本のキリスト教会全体の実体であった。さらに顧みれば、明治の初めから今日まで、日本のクリスチャン人口が1%を超えたことはないのである。

このような現実について考える時、私には、いつも頭から離れない加賀乙彦(1929年生れ、医師で作家)のことばがある。加賀は1987年12月、夫人と共にカトリックの洗礼を受けたが、その翌月、日経新聞のコラムに受洗の感想文を書いている。全文を掲載する紙面はないが、彼は締めくくりの言葉として次のように述べている。「キリスト者になるとは、日本においては少数者になることだということを私はつくづく実感した」と。

日本におけるクリスチャン人口は百年後も1%をこえることはないかもしれない。そして少数者(マイノリティー)であり続けるかもしれない。併し、日本という同質社会にあって、しかも思考の多様性を求められている現代、日本にキリスト者が存在し、さまざまな分野で活躍していることは、日本にとって、また、日本の文化にとって貴重なものと私は思っている。

(2011年 3月号)