説教 「エルサレムのために涙する主」 大柴譲治

ルカによる福音書 19:28-48
フィリピの信徒への手紙2:6-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

エルサレムのために涙する主

本日は枝の主日。場面は、ロバの子に乗って主イエスが「神の平和の都」と呼ばれたエルサレムに入って行かれるところです。特に本日は、ルカだけが記している部分ですが、41-44節に焦点を当てながら、イエスさまが涙を流されたことの意味について思いを巡らせてゆきたいと思います。

もう一度み言葉をお読みいたしましょう。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』」

エルサレムは、イエスさまが十字架につけられた40年ほど後の、紀元70年にローマ帝国によって徹底的に破壊し尽くされました。福音書は既にエルサレムが崩壊した後に書かれていますから、エルサレムのために主が涙を流されたことを、エルサレム滅亡の預言として受け止めたことでしょう。

主は言われます。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」と。これは「平和への道」をわきまえない人間に対する涙であり、戦争や暴力やテロに明け暮れている混沌とした現代社会に住む私たちに対する涙でもある、私にはそのように思えてなりません。

「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」という主の言葉は、(暴力的な)力に頼ろうとしている私たちが、出口のない真っ暗闇の滅びの途上にあるのだということを明確に預言している言葉であるように感じるのです。

そして「平和への道をわきまえていたら」「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」と繰り返されていることからも、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書9章に預言されていたように、子ロバに乗った柔和な王イエスによって神の平和がこのエルサレムにもたらされようとしているにもかかわらず、それを認めず、拒絶した人間の愚かさが告げられています。「ホサナ」と叫んだ人々が、その舌の根も乾かないうちに「イエスを十字架にかけよ!」と叫び始めるのです。どこにも救いのない人間の現実!それがそこには浮かび上がってきます。

イエスさまがエルサレムのために涙を流されたということは、そのような救い難い人間の絶望的な状況に対して涙を流されたということでありましょう。そして、そのような状況の中にあるということを全く知ろうとしない愚かな人間の姿に対して涙を流しておられるのでありましょう。そう、私たち人間の絶望は真実の愛を見失ったところに生じているのです。そしてその絶望的な状況に対して、主は涙を流しながら十字架において突破口を開いてゆかれるのです。ゲッセマネの園(オリーブ山)で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と悲しみもだえながら祈られた姿をも思い起こします。(ルカにはないのですが)その場面でマルコとマタイは、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに告げた主の言葉を記録しています(マルコ14:34、マタイ26:38)。

「アメリカの良心」トマス・マートン

1968年に53歳の若さでタイのバンコクで亡くなったトマス・マートンというカトリック・トラピスト会の司祭がいます。核戦争の愚かさや人種の不平等に対して声を上げて、平和のために活動し、「アメリカの良心」とも呼ばれるほどの大きな働きをなし尊敬された人物でした。東洋の思想に対しても開かれた姿勢を保ち、禅の鈴木大拙とも親交を温めた人物です。

本日は使徒書の日課としてフィリピ書2章のキリスト讃歌が与えられていますが、マートンはこの「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-8節)ということをとても重要なこととして考えていました。特にキリストがご自分を「無」とされたということに注目していたのです。「神は無になられたお方、限りない無であるお方」であるとマートンは言います。そこから、「神の似姿」に創造された人間もまた、イエスのように、へりくだり、自分を無としてゆく存在として創造されていると考えました。これはなかなかの炯眼であると思います。主イエスはこう言われたからです。「だれでもわたしに従ってきたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と。

トマス・マートンは、キリスト教信仰を空/無として捉え、次のように語っています。「時々、自分が空であると同時に充満していることを驚きもって感じる。つまり、自分が空であるからこそ、満たされているのである。私には欠けたところがない。主が私を支配しているのである。」

「自分の空そのものが完成であり充満であることを悟るがために、自分を空にしていくことを認めるのである。」

そこから禅仏教学者・鈴木大拙をも共感をもって引用してゆくのです。「鈴木大拙博士は、単なる空虚に過ぎない空を否定しているが、それは全く同感である。かかる空は、空想で作り上げた充満の片われにすぎない。両者は、形而上学的孤立の中で対立している。私たちが空である時、充満になる。」

人間の心に書かれた神の聖名

主がエルサレムのために流された涙は、自分を無としてへりくだり、人となられた神の涙です。人間の絶望的な窮境に慟哭される神の涙なのです。放っておいては滅びてしまうから、放ってはおけないとその独り子を賜るほどにこの世を愛された神の涙なのです。

マートンの言葉をもう一度引用したいと思います。「この『無』という小さな地点、つまり『完全なる貧しさ』の地点は、私たちの内なる神の純粋な光である。それは、言わば、私たちの中にかかれた神の御名である。つまり、私たちの貧しさ、私たちの貧困、私たちの依存性、神の子である状態、という名前である。それは、天の見えない光で輝く純粋なダイヤモンドのようなものである・・・それはすべての人々の中にある。これがわかれば、何百億という光の点が顔に当たるようなものであろう。そして、生活の暗闇と残虐をつくっている太陽の光が完全に消えるのがわかるであろう。私には、こうしたことがどうしたらわかるようになるかのプログラムはない。それは、与えられるものである。しかし天国の入口は、至る所にある。」(木鎌安雄『評伝トマス・マートン』188-189)」

私たち人間の魂に与えられた神の似姿としての「無」の点、私たちの貧しさ、無力さ、神なしには生きえないという思いを表しているのでしょうが、それは神の聖名が私たちの中に署名されているということでもある。それはすべての人の中にあってダイアモンドのように輝く点であり、天国の入口なのだ、とマートンは言うのです。これは私たちの心に響く言葉であると思います。「神は無になられたお方、限りない無であるお方」なのです。

しかし人間は真の神を忘れ、自分を神とする罪を犯してゆく。神の似姿として記された神の名前である「無」の点を忘れ、滅びの道を歩んでいた。主イエスがエルサレムのために慟哭されたというのは、そのためだったのだと思います。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンを割き、ブドウ酒を与えてくださった主。エルサレムのために、人間が置かれた出口のない窮境のために涙された主。「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あられた主。わたしたちはそのことの深い意味を覚えながらご一緒にこの聖餐式に与ってまいりましょう。このダイアモンドのようなキリストに涙によって私たちが清められ、新しくされているのだということを信じつつ、新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に豊かな主の祝福がありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年4月1日 枝の主日聖餐礼拝)