十字架と私  賀来 周一

理性は神を隠し、信仰は神を現す

この見出しは、ルターが直接言ったかどうかは定かではありませんが、彼の信仰理解を表す命題のひとつとして知られている言葉です。この言葉と出会ったのは、私の大学時代のことで、学生YMCA運動に参加していた頃でした。当時すでに知られていた北森嘉蔵、塩月賢太郎といった人々の指導を受けたのですが、なかでも佐藤繁彦著「ロマ書講解におけるルッターの根本思想」に触れて語られた、この命題は今でも印象深く残っています。

ルターが言う「理性」とは、人が物事をごく自然に考える仕方とでもいうべき意味で使われていると思ってよいでしょう。その理解を下地に、理性が神をもっとも隠すのは十字架の出来事においてであると聞いたときは、意外な驚きでした。

それまでは、キリストが十字架上に死なれたのは、人間の罪を負うための自発的な犠牲行為であって、それほどまでに神は人間を愛されたのである、神は素晴らしいお方であるという程度のヒューマニスティックな理解から抜け出していなかったのです。そこには、十字架の出来事は、私から遠いという印象が残るのを否めませんでした。

 

「私」のための十字架の出来事

あらためて、ゴルゴタの丘の出来事を見る時、人間の理性がもっとも強く働き、神を隠していることが分かります。それを象徴するかのように十字架のキリストを見上げる人々の言葉が行き交います。「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」であり、「他人を救ったのに、自分は救えない。・・・・神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。・・・」(以上はマタイ福音書27章から)がそうです。これらの言葉の向こう側に神を見ることはありません。

しかし、十字架がキリストを罪人として審く出来事となるためには、これらの言葉は必要なのです。なぜか。理性をもって神を隠すという愚を人は知らずして犯かすのだという罪がキリストの十字架の死に現れるためなのです。
ルターはその愚の出来事を逆手に取って、人間の罪を暴き出し、さらにそれを掘り下げ、救いの出来事にまで深化させています。

「キリストは、今や神の子ではなく罪人である。かつて涜神者、迫害者、暴力の徒であったパウロ、キリストを否定したペトロ、姦淫者、殺人者ダビデの罪を我がものとし、我が身に負われる。・・・それによって我々を罪から救い出してくださった。・・・このようにキリストが我々のすべての罪を負われるのを見ることは、我々の最大の慰めである」との彼の言葉の中に「私」の罪とキリストの死を重ね合わせて、「私」の救いを発見しない人はいないでしょう。

 

キリストのものとなる

その慰めをさらに深く「私」のものとするためにルターは、こんなたとえを引いて説明します。「ある人がキリストの前に出て言う。『私はあなたのように(立派な人間に)なりました』と。それに応じてキリストは言われた。『私はあなたのよう(な罪人)になりました』と。」※上記引用は、ルター著・徳善訳ガラテヤ書大講解から(括弧の中は筆者の補足)。人の理性はキリストの前では如何に無力であるかがよく分かるたとえではありませんか。

むさしの教会だより 5月号(499号)より