たより巻頭言『ベートーヴェンの「第九」』 川上範夫

ベートーヴェンの交響曲弟9番は毎年12月に演奏される、これは日本だけで起 る特異な現象ではないだろうか。何故12月に演奏されるのか、それにはいろんな説があるようだが真偽のほどは不明である。 8月に「第九」の演奏を聴きたいと思っても、それは無理な話で、「暮れ」まで待たねばならぬだろう。まるで鮎の解禁のようで ある。

ところが、8月に「第九」を聴いた人達がいたのである。このことを私は平成元年 12月16日の日経新聞のコラムで知った。その一部を紹介すると次の通りである。

「第九」の圧倒的なフィナーレを振り終って拍手もブラボーも聞かなかった指揮 者が二人いる。その一人はベートーヴェンその人で、彼は1824年5月、ウィーン で初演を指揮した時、すっかり聴力を失っていた。アルト歌手にうながされて、初めて熱狂する聴衆を知った。もう一人は、尾高尚安氏である。彼は昭和19年 8月6日、 東京帝大の法文経25番教室での「出陣学徒のための演奏会」で「第九」の三・四楽章を指揮した。太平洋戦争の敗色濃厚だったが、戦地におもむく前に、せめて至高の名曲を聴きたいという学生の願いから催された会だった。当時、日響(N響)の品川の練習場から本郷まで馬車で2時間半かかって楽器を運んだ。トラックのガソリンがなかったのだ。会場には、ただならぬ悲壮感が漂っていた。“すべての人類は汝のやさしき翼の下、友達たれ”と日本語の合唱だった。みな泣いて歌った。尾高の指揮棒が静止したとき、長い沈黙が続いたという。やがて、全員で“海行かば”が歌われた。

以上がコラムの要約である。ひと言、私見を付け加えるなら、この演奏会の丁度1年後の8月6日、広島に原爆が投下され、その数日後、終戦となった。東京はじめ日本中の主要都市は殆んどガレキと化した。 あの「第九」を聴いた学生達の多くは戦場で散っていったに違いない。

ところで、私は、例年12月にしか演奏されない「第九」を去る4月17日、テレビで聴いた。それは「東日本大震災チャリティーコンサート」だった。黙祷から始まっ た演奏は大合唱のフィナーレとなり、会場には拍手が鳴り止まなかった。指揮者はズービン・メータだった。あの敗戦1年前の 「第九」から67年が経過していた。あの時、 敗戦のガレキから奇跡の復興をなしとげた日本は、3月11日大災害からも立派に立ち直ると私は信じている。

(2011年 7月号)