たより巻頭言「ほめる文化」 川上範夫

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の理事長を20年にわたって務められた石原寛先生が亡くなられて1年近くになるが、私は今でも時折、喪失感が胸をよぎることがある。

石原先生は市ヶ谷教会の会員で、教会はもとより社会的にも弁護士として有力な方である。だが、むさしの教会で先生と親交のあった人は少ないと思う。私の場合、本教会の収益事業などでご一緒した機会は別として、先生との接点は、先生がルーテル学院の理事長ご在任中、私が監事を務めていたことである。

監事というのは地味な仕事で、決算書の計数をチェックし、その結果を理事会で報告、又、財務内容について一言、所見をのべるのが役目である。年に一度、監査報告が終ると、石原理事長は満面に笑みを浮かべ「分かりやすいご報告をいただき有難うございます」とおほめの言葉をいただいた。私にとって、この一言は喜びであり励みであった。私が先に述べた喪失感とは、もう、この言葉が聞けなくなったことなのだと思う。

話は変わるが、日本人は勤勉で秩序正しく、その評価は海外でも高いようである。日本語に、気持ちを表す言葉は、慰め、励まし、お詫び、お礼など多様な表現があるが、「ほめる」ということは少ないと思う。日本では「ほめる」というと、お世辞とか、見方が甘いとか、マイナスにとられる傾向がある。これは言語や表現の問題ではなく、日本には「ほめる文化」がないのだと思う。日本人は常に他と比べられ、足らざる点を指摘され続ける。又、マスコミも同様で、何に対しても批判的で、その上、価値あるもの、人々が尊敬しているものにケチをつけることに熱心である。併し「ほめられる」ことは、慰めや、励ましより心に響くものだと思う。昔、何かでほめられたことが、生涯、心の中で輝き続けることがある。

ところで、ルーテル教会に「ほめる文化」はあるだろうか。近頃、私がやや気になっていることは、ルーテル教会全体に、組織や活動、更に、牧師に対する批判が多いように思うことである。若し、そうであるなら、このような空気は変えてゆかねばならない。

「ほめる文化」が拡がることを私は心から願っている。

(2011年 9月号)