説教 「とりなす園丁」 大柴譲治牧師

ルカによる福音書13: 1- 9

行き詰まった私たちの現実

私たちは人生の中で繰り返し「行き詰まり」に遭遇します。出口がどこにもない状況に出会う。それは、前にも右にも左にも行けず、さりとて後戻りもできないような行き詰まった状況です。本日の福音書の日課はそのような状況の中にある私たちの姿を描いているように思われます。イエスさまが見る所によると、私たちは滅びる以外にはない行き詰まりの状況にあるのです。それはどのような行き詰まりであるのかということを心に留めながら、本日の福音書の日課に耳を傾けて行きたいと思います。

イエスさまのもとに何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを告げます。ローマ帝国からユダヤを治めるために派遣されていた総督ポンテオ・ピラト。彼は残忍な一面を持っていたということが伝えられています。エルサレムの神殿で巡礼に来たガリラヤ人を殺害するという事件が起こる。その血が祭儀のために用いられる犠牲の動物の血に混ざったという大事件が、(今となっては確定はできないのですが)実際にあったようです。それを伝えた人々にイエスは答えられました。この答えは彼らにとっては予想外の答えだったに違いありません。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。イエスのもとに来た人々の求めていた答えは、恐らく、「彼らは他のガリラヤ人よりも罪深かったために神の罰を受けたのだ」という言葉であったと思われます。

心理学では、災難に遭った人のことを思う時、災難に遭わなかった人は心の中で「自分でなくてよかった」とホッとして、それゆえに後ろめたい思いを持つということが報告されています。ドイツ語ではそれをShadenfreude(他人の不幸を喜ぶ、ざまを見ろという気持ち)と言うそうです。彼らは「彼らは罰が当たったのだ。罪の当然の報いを受けた」という形で自らを正当化しようとしたと見てよいでしょう。夏目漱石が鋭く見抜いたように言えば「傍観者の利己主義」ということになりましょうか。ヨブ記に出てくるヨブの三人の友人たちもまた苦しむヨブに対して同様の立場を取ってゆきます。そのような時に人は、神の正当性を弁護しようとして実は自らの正当性を弁護しているにすぎないということが往々にしてあります。

イエスさまはしかしそのような第三者的な逃げ方を許さない。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。彼らの苦難を自らへの悔い改めへの呼びかけとして捉えなさいとイエスさまは言われているのです。それは別の言い方をすれば、パウロがローマ署12:15で言うように、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」ということを彼らに命じているのではないかと私には思われます。

主イエスは彼らにもう一つの歴史的な事件を思い起こさせます。シロアムの(水)塔が倒れて18人が犠牲になったという事件です。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

毎日のようにテロや暴力によって多くの人々の命が奪われてゆきます。私たちの心はそれらを深い痛みをもって覚えます。しかし次の瞬間には、どこかでそれらを聞き流してしまっている。人事なのです。気の毒にとは瞬間的に思っても、遠い所の出来事として自分には関係のない事柄としている。そうしないと耐えられないからでもあります。人の痛みに対する無関係、無感覚、無関心、無感動、すなわちアパシーとは自らを守るための防衛規制の一つであるのかもしれません。それは冷めた愛、長続きしない断片的な愛でしかありません。私たちは冷めた愛という行き詰まりの中にいるのです。そしてそれは滅びる以外にない行き詰まりの状態なのだとイエスさまは本日の福音書の日課の前半部分で告げているのだと思います。

園丁の執り成しの愛に気づく

それに対して、後半部分が続いています。「実のならないいちじくの木」のたとえです。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

ブドウ園とは神の民イスラエルのことを意味しています。パレスチナ地方のブドウ畑にはブドウの他に他の実のなる木、特にいちじくを植えるのが普通で、ブドウの木をいちじくに結びつけて支えとしたようです。そこからこのようなたとえ話が語られているのです。ちなみにルカは、マルコとマタイが記している神の裁きの厳しさを示す「実のならないイチジクの木のたとえ」(マルコ11:12-14,20-25,マタイ21:18-22)を省いています。その代わりにこの執り成す園丁のたとえ話をもって神の忍耐と辛抱強さとを教えているとも言えましょう。

愛の実がならないいちじくとは、本来はイスラエルの民のことを指しますが、ここでは冷めた愛しか持たない私たち自身のことを指していると読みたいと思います。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(8ー9節)。実のならないいちじくの木は園丁によって強く執り成されているのです。主イエスはいつも実のならない私たちのために神さまに執り成しをしてくださっていると読みたいと思います。この主イエスの執り成しにこそ私たちの存在の礎があり根拠がある。

「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言ってくださった園丁は、切り倒されるべき私たちの身代わりとなってあの十字架にかかり、自ら切り倒されてくださったお方でもあります。「もしそれでもダメなら」という言葉には、「自分のすべてを賭けてでも、必ず悔い改めの実を実らせます」という園丁としての主イエス・キリストの覚悟を私たちはそこに見てゆきたいのです。このようなやり取りが三年間毎年あったのかもしれません。

そしてこの命がけの主の愛に触れた時、私たちの目から本当の涙がこぼれるのではないか。私を命がけで愛してくださるお方がいてくださる!十字架はそのことを私たちに示しています。このキリストの愛こそが私たちの行き詰まりを打破するのです。Shadenfreude、冷たい愛、傍観者の利己主義、ニヒリズム、私たちの無関心・無感動・無関係・無感覚というアパシーを打破してくれるのです。そして、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く、そのような生き方へと私たちを招き入れてくれるのです。

パウラス先生の思い出

私は自分が神学生の時に熊本の神水教会でインターンをした時のことを思い起こします。ご承知の方も少なからずおられましょうが、神水教会には慈愛園という綜合社会福祉施設があります。モード・パウラスという米国からの信徒宣教師が1919年に始めた施設です。そこには乳児ホーム、幼稚園、こどもホーム(児童養護施設)、老人ホーム、特別養護老人ホーム「パウラスホーム」などが教会の隣に隣接されています。

神水教会には伊豆永高徳さんという80歳になられるオルガニストがおられます。慈愛園子供ホームで育ち、パウラス先生の薫陶を受けてまっすぐに育ちました。この伊豆長さんからインターン中にパウラス先生についての話をいくつも聞かせていただきました。中でも忘れられないのは、ある時、子供ホームの朝礼でパウラス先生がムチを持って子供たちの前に立たれた時のエピソードです。盗みか何か悪いことをした子供がいると分かった時のことだったそうです。パウラス先生はこう言われたのです。「あなたがたのうちのある人が悪いことをしました。悪いことをした人は罰を与えられなければなりません。ですから私は今からその子に罰を与えます。」と言って、パウラス先生はおもむろに持っていたムチを振り上げて、力いっぱい、血が出るまで自分の腕をそのムチで何度も何度も打ち続けたのだそうです。伊豆永さんはその時のパウラス先生の真剣な姿が忘れられないと言って涙をこぼされました。私もそれを聞いて胸がジーンと熱くなりました。イエスさまの十字架の苦難の意味をよく表すエピソードだとも思いました。

自分のために本気になって、捨て身になって関わってくれる人がいる!このことに気付くことは人生を生きてゆく上で本当に大切なことだと思います。パウラス先生の愛はそれを見ている子供たちの心の奥深くに、キリストの愛として深く刻まれてゆきました。伊豆永さんは、昨日私も慈愛園のホームページで見て知ったのですが、昨年9月には熊本日々新聞にも、長年奉仕してきた音楽ボランティアとしての働きを特集で取り上げられていました。

このような本気になって関わってくれる愛、捨て身の愛を私たちは生きるためには必要としているのです。それを見失ってしまうと本当の生き方はできなくなってしまうのです。

執り成す園丁として主イエス・キリストは、言いました。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。ここに私たちに対する捨て身の愛があります。ここに私たちを生かす真実の愛があります。

今は四旬節。主イエスの十字架への歩みを覚えつつ、日々を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの豊かなお支えがありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年3月14日 四旬節第三主日礼拝説教)