説教「悔い改めよ、あなたは滅びてはならない」 大柴譲治

ルカ福音書13:1-9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「神と悪魔が闘っている」

今私たちは教会暦において四旬節(レント)の期間を過ごしています。典礼色は悔い改めの色、悲しみの色、王の色である「紫」。主の十字架への歩みに思いを馳せ、自らを省みて神へと立ち帰る期間です。

最近ドキッとした言葉と出会いました。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中の言葉です。「神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ」。

然り!ドストエフスキーは信仰者/文学者として人間の心の闇を徹底的に見つめました。人間の闇の深淵の奥の奥底までもドストエフスキーは見つめてそれを言葉に表現しようとしたのです。なぜか。人間の持つ闇の絶望的な暗さ/深さを明らかにすると共に、同時にその闇の底に届いているキリストの救いの光をも明らかにしたかったのだと思います。神と悪魔とが鬪っている戦場としての人間の心に、私たちを救うために降り立ってくださった方。それが主イエス・キリストであり、その十字架への歩みは悪魔との戦闘を表しています。

神と悪魔の戦いは二週間前、四旬節(レント)の最初に「40日間の荒野の誘惑」で示されていました(ルカ4章冒頭)。主イエスは三度にわたる悪魔の誘惑に対して三度とも申命記の言葉を引用してこれを拒絶しています(「人はパンのみに生くるにあらず」「汝の神たる主を拝し、ただ主のみに仕えよ」)。ルカが記す三度目の誘惑では、悪魔自身が神の言葉を持ち出したことに私はゾッとする思いを持ちました。

「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」(共に詩篇91:11-12からの引用) イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』(申命記6:16)と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4:9-13)

神の沈黙/不在

私たちは、最近起こったハイチやチリの地震と津波が多くの悲劇をもたらしたことを知っています。そのような中で本日の福音書を読むと、一体神はどこにいて何をしておられるのかという憤りにも似た思いに囚われてしまいます。どうして神はこのような不条理を許しておられるのかと私たちは思うのです。実はまさにそのように思う私たちの思いにおいて、ドストエフスキーの言う「神と悪魔が闘っている。人間の心を戦場として」という言葉が真実みを帯びてくるように思います。悪魔は常に私たちを神から引き離そうと働いているからです。しかしそのような戦場に神ご自身が降り立ってくださった。本日の旧約の日課にある「わが民の叫びを聴けり」「かならずやわれ汝と共にあればなり」「われは有りて在る者」(出3:7、12、14)とはそのような神の、「わたしはどのようなときにもあなたと共にいる」(インマヌエル)という自己宣言なのだと思います。

神と等しくあられた主イエス・キリストがその身分に固執することなく、自分を無にして僕の姿を取ってこの地上に降り立たれたのは、悪魔と闘って滅びに至ろうとしている私たちをその翼の陰に包み込むためでありました。キリストは私たちに代わって、私たちのために、悪魔との血みどろの戦いを、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで貫かれたのでした。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまででイエスを離れた」とルカ4:13にはありましたが、ルカ22章において悪魔は(今度は「サタン」という名で)十字架の場面でイスカリオテのユダやシモン・ペトロにおいて再び表れます。あるいは血のように汗を流してオリーブ山(マルコとマタイでは「ゲッセマネの園」)で祈られた主イエスの姿の中に、私たちは悪魔との壮絶な戦いの姿を見ることができるのだと思います。主や弟子たちがそうであったように、十字架の出来事は私たちにおいても、私たちの破れや不信仰や裏切りを通して、神と悪魔との壮絶な戦いを浮かび上がらせて行くのです。

私たちの痛む心を麻痺させる悪魔の働き

病気の中には痛みを感じることができない「無痛症」という難病があります。実は「痛み」を感じるということには大切な役割があるのです。「痛み」は私たちに危険が迫っていることを知らせ、何かただ事ならぬことが起こっているということを知らせてくれるのです。痛みを感じなくなるということは致命的な出来事になりかねないのです。例えば、熱いやかんに触れてしまった時などは思わず反射的に手をパッと放します。熱さを痛みとして感じて火傷がひどくならないように瞬間的に身体が動くのです。また、虫歯になると痛いですね。痛みが緊急事態を告げているのです。手遅れにならないように痛みは私たちに治療を要求しているのです。

同様に「試練」の痛みは私たちに私たちが神を必要としていること、私たちが神へと向かわなければならないことを示しています。試練の苦しみは私たちを覚醒させてくれるのです。試練の中で本日の使徒書のパウロの言葉が私たちの心に響いてきます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13)。この「逃れの道」こそ主が十字架において切り拓いてくださった道です。

悪魔のささやきとは、私たちからそのような痛む心を麻痺させることにあると思います。無感覚、無感動、無関心、無関係、私たちの人間らしい温かい心を冷たく凍らせてゆくのです。

主イエスの十字架の道行きという四旬節(レント)の苦難の歩みを覚えるとき、私たちは今自分の中に感じている痛みに焦点を当てたいと思います。私たちを痛みから解放するために、主はあの十字架にかかってくださいました。主は言われました。「誰でもわたしに従ってきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と。私たちに十字架の痛みを負えと言うのです。悔い改めとは「神への方向転換」、否、それを超えた「主体自体の転換」です。天動説から地動説へのパラダイムシフト(転換)と言ってもよい。私たちは試練の中で、自分中心にすべてが回っているのではなく、神を中心にしてすべてが回っているのだということを認識するのです。パウロが言うように「もはや生くるのは我にあらず。キリスト我のうちにありて生くるなり」なのです(ガラテヤ2:20)。自分の十字架/痛みを担う覚悟を持つことが求められています。

聖餐への招き

本日私たちは聖餐式に招かれています。主は渡される前日、感謝してパンを割き、弟子たちに与えて言われました。「これはあなたがたのために与えるわたしの身体である」。ブドウ酒も同じようにして言われました。「これは罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流すわたしの血における新しい契約である。わたしの記念のためこれを行いなさい」と。

神と悪魔が私たちの心を戦場として闘っている、まさにその戦場に主イエス・キリストは天から降り立ってくださったのです。私たちをそこから救い出し、私たちを支え、守り、私たちにご自身の勝利を与え、私たちをご自身の復活のいのちに生かすために。「悔い改めよ、神に立ち帰れ!あなたは滅びてはならない」、そう主は告げておられます。「実のならないいちじくの木」のために執り成し、一生懸命世話をして命がけでそこに悔い改めの実をならそうとする園庭こそ、私たちのために十字架に架かってくださった主イエス・キリストご自身です。このキリストの確かな悔い改めへの呼びかけの声を聴き取りながら、そのみあとに従いつつ、ご一緒に聖餐式に与りましょう。「神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ」。その戦場にこそ主の十字架が立っています。

お一人おひとりの上に主の守りと導きがありますようにお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年3月7日 四旬節第三主日説教)