説教 「必要なことはただ一つ」 鈴木浩牧師

ルカによる福音書10:38-42

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように。

マルタとマリア

教会暦も進みまして、本日は聖霊降臨後第8主日になりました。本日の福音書の日課は先週の良きサマリヤ人の物語の箇所に続く部分、ルカ福音書10章38節以下に記されているマルタとマリアの物語であります。

先週の箇所もそうでしたが、今日の箇所もルカ福音書にしか記されていない箇所であります。どうゆう事情からか詳しいことは分かりませんがマタイもマルコも、そしてヨハネもこの一度聞いたら忘れられないこの出来事を知らなかったんでしょう。そうでなければ、きっと、それぞれの福音書の中に記していたはずだと思うわけです。

「一行が歩いているうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」と言う書き出しで本日の箇所は始まっています。ある村とここには具体的な名前は出てきませんが、ヨハネ福音書11章にはこういうふうな記事があります。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。」ここには、その姉妹の村、ベタニアとありますから、恐らくこのある村というのはベタニアのことだと思われます。

「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」という記述も自宅に迎え入れたという意味でしょうから多分場所はベタニアでしょう。ベタニアと言えばエルサレムには直ぐ近くの村でありましょう。そしてこのマルタとマリアも既にイエスと知り合いであったと思われます。それどころか、ヨハネ11章の記述から言いますと、イエスはマルタとマリアとただ単に知り合いだったと言うだけではなく、かなり親しい間柄であったと考えられるのであります。今日の箇所でもマルタがイエスに対して非常に率直なものの言い方をしているところからもそれが伺えるわけであります。

39節にはこう書かれています。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」イエスは弟子達と一緒でありました。他にもイエスのことを聞いて、マルタの家に来ていた人が居たでしょう。そしてイエスはそうした人々に説教をされていたのであります。マリアはそういう人たちと一緒に、イエスの話に熱心に耳を傾けていた。「聞き入っていた」と書かれています。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」とありますから、ただひたすらイエスの話を聞いていたのです。他方、マルタのほうは、折角、家に来てくれたイエスと弟子達のために、もてなしの準備で、てんてこ舞いをしています。イエス一人ではなくて、弟子達の分の準備もありますから、食事の準備だけでも大変だったでしょう。あるいは宿泊の準備も必要だったかも知れません。マルタ一人では実際、手に負えないほどの仕事だったに違いありません。ルカは、「マルタはいろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と記しています。あれもしなければいけない、これもしなければいけないと思いながらも、仕事がなかなかはかどらず、もういらいらし始めます。そのいらいらをつのらせたのはですね、自分がこれほど接待で、きりきり舞いしているのに、妹のマリアといえば、イエスの足もとに座り込んでイエスの話に聞き入っているだけ、マルタを助けようともしなかった。そういう点であります。とうとう頭にきて、怒りが爆発します。そしてイエスに苦情を言うのであります。

「『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています。なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」こうイエスに言います。マルタは「主よ、なんともお思いになりませんか」と言って、イエスに八つ当たりをし始めているんですね。マルタは何にも手伝おうとしないマリアに腹を立てているのですが、それだけじゃなくてマリアに手伝うように注意することさえしないイエスにも実際、腹が立っているのです。わたしにも、家事をしない私にもマルタが腹を立てているのはよく理解できますから、家庭の主婦をされている方は尚のこと、マルタの怒りが良く分かると思います。実際、マルタとマリアの態度は極めて対照的であります。イエスが、家を訪ねて来るというのは滅多にないことですから、一生懸命接待をしようとしているマルタの気持ちは良く分かります。この時代のことですから、しばらく前までの日本のように、男性が接待や食事の手伝いをするというようなことはありません。マルタ一人が、ですね、食事と、恐らく宿泊の準備で忙しく立ち働いていたのであります。ですから、家庭の主婦の皆さんは、きっとマルタに同情するだろうと思います。マルタは、折角来てくれたイエスのことを思って、実際、一生懸命になっているからであります。

ところがマルタの苦情を聞いたイエスの答えは、マルタの予測とは違っていました。イエスは、マリアに手伝いを命じられるのではなくて、逆に、マルタのほうをたしなめられるのです。

「『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。』」それが、イエスの答えでありました。マリアは良いほうを選んだと言われているのですから、接待で忙しく立ち働いているマルタよりも、イエスの足もとに座って、じぃーとイエスの話を聴いていたマリアのほうが正しい態度だと言っておられることになります。

この二人の姉妹にはかなりはっきりした性格の違いがあったように思われます。ヨハネ福音書11章17節以下には、次のような注目すべき言葉が記されています。

「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタはイエスが来られたと聞いて迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」

マルタは一応、礼儀正しく、イエスに挨拶をするために出かけて行きます。マリアの方は、イエスがなぜもっと早く来てくれなかったのか、もっと早く来てくれたら、ラザロは助かっただろうにと、そう思っていますから、イエスに腹を立てて、家から出てこない。マリアは一途な性格の女性だったと思われます。

ルカの箇所では、今日の箇所では、イエスの話を座り込んで、その話に聞き入っているのですが、ヨハネの箇所ではイエスの来るのが遅いといって家の中に座り込んで、挨拶にも行かない。こういう点であります。マリアのそうした性格が今日の箇所では良いほうに作用して、座り込んだままイエスの話を聞き入っていた。その態度が、「マリアは良いほうを選んだのだ。」というイエスの言葉に繋がったのであります。

しかし、イエスが、マルタの接待がどうでも良いと思っているのではないことは明らかであります。

「マルタ、マルタあなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」というイエスの言葉には、マルタに対する深い愛情が込められています。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」という言葉は、しかし、マルタが大切なことを忘れてしまっている点も明らかにしています。思い悩みというのは、無論、思い煩いという意味です。「思い煩うな。」と言われたのはイエスご自身でありました。使徒パウロも繰り返し「思い煩うな。」と勧めていました。

思い煩うときには人は、本当に大切なことを忘れてしまうからであります。マルタが接待に忙しかったのは無論、善意からであります。イエスのことを思ってしたことであります。その点については何の疑問もありません。しかし、余りに忙しくて思い煩いに捕らえられ、本当に大切なことを忘れてしまったのであります。それは、イエスが語って居られるときに、人間が取りうる唯一の態度は、イエスの話に真剣に耳を傾けることで、イエスの話に聞く耳を持つと言うことが必要なのであります。イエスを接待することがどれ程大切なことであっても、イエスの話に真剣に耳を傾けるという決定的に重要なことと較べれば、そうしたものは何程のことでもありません。イエスが求めておられるのは、御言葉の前にへりくだり、御言葉に真剣に聞こうとする開かれた耳なのであります。そのことと較べたら、他のことは、人間の目から見ればどれ程大切に見えても、実際、取るに足らないことなのであります。イエスが、必要なことは唯一つであると断定しておられる通りなのであります。イエスは真剣に御言葉に耳を傾けるように求めておられるのであります。

その間の事情をよく理解している福音書記者、ルカは、「マリアは、イエスの話に聞き入っていた。」と書いています。イエスの元にいるときには、イエスの元にしかないものにこそ、目を留め、耳を傾けねばならないのであります。イエスの所にしかないもの、それはイエスの御言葉であります。接待がいけないというのでは無論ありません。心からの接待は、あって良いし、実際あるべきなのであります。しかし、どれだけの接待があっても、どれだけの歓迎があっても、イエスの言葉に真剣に耳を傾ける姿勢がないのなら、どのような接待も、どのような歓迎も無意味なのであります。マルタの接待に感謝しつつも、接待のことで思い煩っているマルタに必要なことは唯一つだけであるとイエスが言い切って居られるのも、それが理由なのであります。イエスと共に居る時に必要なのは、イエスの元にしかないもの、イエスの元以外には何処にもないもの、つまり、神の生きた御言葉にこそ、集中しなければならないということであります。

持って生まれた性格もあったのでしょう。マリアは、接待のことで右往左往しているマルタとは対照的に、そしてマルタの接待を無視するかの如くに、イエスの足元に座り込んで、イエスの話に聞き入っていました。マリアは図らずもイエスが人々に求める態度を取っていたのであります。イエスの御言葉に全身全霊で集中しているのであります。ほかのことは一切忘れて、マルタが接待のことできりきり舞いしていることにも気が付かない程に、イエスが語る御言葉に集中しているのであります。このような御言葉を聞くことへの集中それを指してイエスは、「必要なことは唯一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。」と言われたのであります。

ただ一つの必要~神の御言葉への集中

ところで、この話が、このような形で、福音書に記されて今日まで残ったのは、マルタとマリアという二人の姉妹を比較して、マルタを非難し、マリアを賞賛するためというのではないのであります。女性は、マリアのようであるべきだ、などと言うためでもありません。この話を遥か昔の二人の女性の物語と考えているだけでは、わたし達は、この物語の半分も分かっていないということになります。この物語は、マルタとマリアの思い出を綴っているものではないのであります。それは教会に与えられた教えであります。従って、それは、わたし達に向けられたイエスからの御言葉なのであります。今日の使徒書の言葉の中にもありましたが、「教会はキリストの体」と呼ばれています。そして事実、教会はキリストの体であります。教会に霊的に内在する聖霊の力によって教会の中で、とりわけこのように主の名によって礼拝している時に、わたし達と共にキリストがおられるがゆえに、教会はキリストの体と呼ばれているのであります。

今日の物語を通して、今私たちに向けられている問いは、私たちがどれだけ教会にしかないことに集中しているかという問いなのであります。教会の中には様々な出来事があっていいし、あるべきであります。様々な働きがあっていいし、あるべきなのであります。バザーもいいでしょう。あって悪いなんていうことは全然ありません。とりわけ大切なことは、教会の中にしかないもの、教会の中にしか在り得ないものに集中するということであります。教会でしか得ることのできないもの、世界中、何処を探しても見出すことができないもののためにこそ教会があるのです。一言でいえば、本当に必要なことは、神の御言葉へと集中していくと言うことであります。イエスが必要なことは唯一つだけであると言われて、足元に座り込んで、接待もしないで、イエスの話に聞き入っていたマリアの態度を見て、「マリアは良いほうを選んだ」といわれているとおりであります。

ルーテル教会の基本的な信仰告白文書であるアウグスブルク信仰告白は、その第7条で、教会とは何かという問題を論じていますが、たった二つの事しか言っていません。その一つは福音が正しく説教されていること、もう一つは、福音に従って、洗礼と聖餐が執行されていること。この二つだけであります。そしてアウグスブルク信仰告白はさらに続けて、この二つがあれば充分だというのであります。しかし、逆から言いますと、他になにがあっても福音の正しい説教がなければそれは教会ではないということなのであります。教会にはいろんな働き、いろんなプログラムがあっていいし、あるべきなのです。しかし、何があっても神の御言葉が正しく説教され、神の御言葉が正しく聞かれ、正しく信じられなければ、もはや、教会の格好をしていても教会ではなくなってしまうわけであります。何が教会を教会たらしめているのか、それは、教会にしかないものであります。神の御言葉であります。

マルタとマリアのこの物語は、わたし達が、どれだけ神の御言葉に集中しているのかを改めて自らに問う機会を与えてくれています。なぜならルターが語ったように、神の生きた御言葉があるところには、他に何がなくとも全てがあるし、神の御言葉がないところには、神の生きた御言葉がないところには、他の何があっても、実は、何もない。教会は、教会にしかないもののために建てられています。他の何処を探しても得ることのできないもの、それは、教会の中で語られ、聞かれ、信じられる神の生きた御言葉なのであります。そして御言葉に接する、在り得る唯一つの態度はそれに真剣に、集中して耳を傾ける、その一点であります。わたし達の目が神の聖霊の導きによってどうかこの御言葉のように、神の御言葉にひたすらに、真剣に聞き入る教会でありたいと願う者であります。

祈り

祈ります。

恵み深い天の父なる神よ、今朝もあなたの教会に召し出だされ、共々にあなたの御言葉に聞くことが許されて感謝いたします。どうか、この教会が、そしてこの教会に連なるわたし達一人一人が、あなたの御言葉を豊かに語る教会、そしてわたし達一人一人でありますように、どうか上からの聖霊の恵みによって、わたし達を、そしてこの教会を豊かに満たして下さい。救い主、イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年7月25日 聖霊降臨後第8主日礼拝説教、テープ起こし:酒井悦子神学生)