説教 「キリストは何処に」 高村敏浩

ルカによる福音書 10:38-42

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

キリストは何処に

God is where God is supposed to be, in our choices, in our struggles, in our joys! Amen.

神様は神様のおられるべきところにおられます、私たちの決心のうち、苦難のうち、そして喜びのうちに。アーメン。

水曜日から土曜日までの四日間、長野でAPELT-Jのセミナーが行われました。大柴先生、C.I先生、K.Sさん、私といった、むさしの教会からの4人を含めた15人ほどが参加し、「クリスチャンホームにおける信仰の継承」について学びのときを持ちました。とても素晴らしいセミナーでした。学院大で講師をされている John Plagens 先生の山荘を利用してのセミナーだったのですが、参加者が協力して食事を作り、掃除をし、また講義の中でも外でも活発な話し合いを持ち、それらを通してとてもいいグループが形成されたと思います。そのような、出席者参加の手作りセミナーに出て、自分自身を見、また他の参加者を見て思ったのは、「参加者全員がマルタであるなぁ」、ということでした。これは、ここむさしの教会においてもそうではないかと思います。教会員が忙しく立ち回る姿は、今日の福音書でのマルタの姿と重なるように思えてしまいます。それでは、私たちマルタに、福音は何を語っているのでしょうか?

マルタとマリアの話が、二千年の歴史を持つ教会の伝統においてどのように理解されてきたのかということを考えたとき、修道院の影響を無視することはできません。実際、マルタとマリアの話は、瞑想や観想といった修道理念、つまり修道生活の理想を伝える格好のモデルとして語られてきました。修道士たちは、テサロニケの信徒への手紙一(5:17)にある不断の祈り、つまり絶え間なく祈り続け、そして神のみに集中し、汚れのない、清い心の獲得を目指します。これは、山上の説教でイエスが、心の清い人々は神を見ると言われたからです(マタイ5:8)。静寂と孤独の中で神に、キリストに全身全霊を傾ける修道士たちは、マルタとマリアの話に自分たちの考えの正しさを確信したのではなかったでしょうか。マルタのように客人をもてなすことは大切な仕事です。しかし、マリアのように神の足元に座ってその言葉に耳を傾けるというのはもっと大切なのです。しかし、それは本当なのでしょうか?私たちは、目に見えない、聴く神の言葉である説教と、目に見え、感じることのできる神の言葉である聖礼典の二つだけを受ける、マルタのいない信仰を持つべきでしょうか?でも、それはどうも今日の福音書の言わんとすることとは違うように思います。

私たち日本人になじみの深い修道会は、1549年に鹿児島に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルや、上智大学の属するイエズス会だと思います。しかし、教会の歴史上最も強い影響力を持った修道会はベネディクト会です。これは、5世紀に活躍したヌルシアのベネディクトゥスという修道士が始めたと言われている会で、「労働と祈り」をその根本理念としています。この修道会から見れば、祈りも大切ですが、客に仕えるなどの仕事も大切でしょう。事実、ベネディクト会の戒律には、「修道院を訪ねてくる人はすべてキリストとして迎え入れなければなりません」とあります。キリストをもてなすように客に接しなさいと言っているのです。このように、ある修道会では、マルタもマリアも両方とも大切だと言っているように思えます。いかがでしょう。どうも、振り出しに戻ってしまったように感じます。

先々週、イエスはエルサレムを目指して旅を始められました。そこでは弟子の覚悟について語られました。先週は、なじみの深い「善いサマリア人のたとえ」が日課でした。そこでは、私たちの隣人とは誰かということが語られています。また、来週は、ルカ版の「主の祈り」についての日課です。こうした文脈の中で今日の福音箇所を捉えてみると、このメッセージもまた、キリストの弟子になるとはどういうことか、またキリストの弟子とはどういう者かということについて語っているのではないかと考えられます。ある聖書学者は、マルタとマリアの話を、「善いサマリア人」の話との関連において理解するべきだと提案します。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」という、最も重要な教えは、サマリア人のたとえによってその隣人愛が語られ、そして神への愛はマルタとマリアの話で語られていると言うのです。

マルタとマリアの話では、神の臨在がテーマであることに異論はありません。第一の朗読箇所である「イサクの誕生の予告」では、アブラハムとサラに三人の人、神の御使いが訪れます(cf.ヘブライ人への手紙13:2)。教会の伝統では、この箇所は神ご自身の訪れと理解するものもあります。三人が三位一体の神の三位格を表していると言うのです。牧師室の横の壁にイコンのポストカードを張っておきましたが、これはこの朗読を三位一体の神の訪れと理解して描いているものです。後で是非見てみてください。この三人から、アブラハムとサラは神の約束、つまり福音を聴きました。

また、第二の日課であったコロサイの信徒への手紙で、パウロはキリストがコロサイの信徒の内に、またパウロ自身の内におられると言います。さらに、福音は世界中に宣べ伝えれていると言います。パウロは、神の御言葉を伝える務めを持っているのです。

第一の日課、第二の日課の両方で、神の直接の臨在、大柴先生流に言うところの「リアル・プレゼンス」と神の御言葉、福音の宣べ伝えが語られています。そして、福音の日課でもまた、神の臨在と福音について語られているのです。

マルタとマリアの話には、三人の登場人物がいます。イエス、マルタとマリアの姉妹です。マルタに迎え入れられたキリストの足元で、マリアはその言葉に耳を傾けます。マルタは、キリストをもてなそうと忙しく立ち働きます。そして、忙しくしている自分を手伝いもしないでイエスの話に聞き入るマリアに腹を立てたのでしょう、イエスに言います:「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。それに対してのイエスの答えは、マルタの期待を裏切るものでした:「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

もしこの話が実際に私たちの日常生活で起こったなら―事実よく起こりえるような気がしますが―、私たちは多分マルタに共感を覚えるのではないでしょうか?もしイエスの言葉がなければ、私たちマルタはこの話のマルタに自分を重ねて、マリアに憤りを覚え、またマリアの肩を持つイエスにも怒りを感じるかも知れません。私なら間違いなくそうするでしょう。しかし、イエスは私たちとは違った考えを持っていました。ルカはもてなしや奉仕を否定しているのではありません。彼は福音書の他に使徒言行録を書きましたが、そこでは教会執事の選出が描かれています。自分たちの仲間や寡婦たちが、ヘブライ語を話すユダヤ人たちに軽んじられているように感じたギリシア語を話すユダヤ人たちは、生活全般の必要を見極め、それを満たす人たちを必要とし、そのような仕事を果たす7人の執事たちを立てたのです。このことを漏れずに記述するルカが、奉仕の重要性を否定するはずがありません。また、ルカは、福音書の8:21に見られるように、神の言葉を聞き、そして行うことの重要性を語ります:「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。そのようなイエスが、マルタの奉仕を否定するでしょうか?また、御言葉をただ聞くだけのマリアは、イエスの意にかなっていると言えるのでしょうか?イエスの真意を測り知る手掛かりは、彼の言葉の中にあると思います。

イエスは言いました:「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。イエスは、マルタが「多くのことを思い悩み、心を乱している」と言います。マルタのこの状態は、ペリスパオーというギリシア語があてられています。「気を取られる」、「(なにかに)専心している」と言う意味です。これを、後者、すなわち「専心している」と言う意味でとった場合、「ただ一つの必要なことを選んだ」マリアとの違いは、何に専心しているのかの違いであるということになるのではないでしょうか。

私たちは人と接するときに、しばしば私たちのアジェンダを持ってします。「隠された意図」と言い換えることができるでしょうか。それは、本人自身からさえ隠されていることもままあります。マルタとマリアの話では、マルタは自分自身の意図を持ってキリストに奉仕をしていたのではないでしょうか?つまり、イエスの奉仕される必要を見極めて、適切に奉仕をしていたのではなく、むしろ、自分の奉仕をただ押し付けていたのかもしれません。逆説的な言い方ですが、自己中心的な奉仕だったのです。これは、つまりは、マルタはイエスと向かい合っていないということになります。マルタはモノローグをしていたのです。しかし、本当にイエスに向き合って奉仕をしようとするなら、自分が正しいと思うことを奉仕するのではなく、イエスが本当に望んでいることを聞き、そしてそれを奉仕すべきです。それに対して、マリアは、イエスと相対し、結果二人はダイアローグ、対話を持ったのです。そしてそれがマルタとマリアの違いだったのです。マルタは自分の意図、または奉仕のための奉仕に専心し、マリアはイエスに専心したのです。しかし、私たちにとってイエスに専心するとはどういうことでしょうか?

マルタとマリアの時代には、まことの神であり、まことの人であられたイエスが、手の触れられる姿で歩き回り、弟子たちと共にいました。しかし、昇天後の今、私たちはマルタとマリアのように具体的には神を認識できません。それでは今日神は、イエスは何処におられるのでしょうか?私は、コロサイの信徒への手紙でパウロが言うように、神は人間のうちにおられると思います。今朝、この教会堂で回りに座っている人々を見てください。キリストは、その、あなたの隣に座っている人のうちにおられます。あなたを愛してくださる十字架の神は、他者を通してあなたのために臨在しています。そして、あなたのうちにおられる神は、あなたを通して、他者に臨在するのです。マリアのようにイエスを聞き、対話するとは、私たちが隣人に仕えることです。そしてこの一方的ではない、対話に根ざした奉仕は、しかし一方的に神から与えられた恵みのゆえに、私たちに可能となるのです。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年7月29日 聖霊降臨後第9主日特別讃美礼拝)