説教「しかし、お言葉ですから」 大柴 譲治

ル カ 5:1-11

「徒労と失望」

私が神学生だった頃、賀来先生がよくおっしゃっておられました。「牧師は徒労と失望に慣れないといけない」。先生らしいユーモラスで、よく考え抜かれた言い方だと思います。これはどういう意味でしょうか。これは神学生を励ますための言葉、あるいは今から思えば、牧師が牧師自身を励ますための言葉であったのかもしれません。「徒労と失望」とは人間の虚しく疲れ果てた姿を示しています。それに「慣れる」とはどういう意味か。それはもう疲れ果ててしまって無感覚となり、徒労を徒労とも感じなくなる、失望を失望を感じなくなるということではありますまい。徒労は徒労として失望は失望として受け止め続ける。しかし、「どんなに徒労と失望を味わおうとも、希望を見失ってはいけない。諦めてはならない」という逆説的な励ましであったのではないかと思うのです。そしてこれは何も牧師に限らず、すべてのキリスト者に当てはまる至言ではないかと思うのです。

漁師たちの徒労と失望

本日の福音書の日課には、そのような徒労と失望に関する記事が記されています。漁師であった弟子たちの召命の記事です。群衆がイエスの周りに押し寄せてきたため、イエスは舟の上から群衆に語ろうと、舟を出すよう漁師たちに頼みます。夜通し苦労しながら網を打ったが結局何も取れなかったということで、彼らは徒労と失望の中で自分の中の虚しさを慰めながら網を洗っていたに違いない。そこに主が登場する。彼らにとってタイミングは最悪です。イエスの依頼をシモンはおそらくしぶしぶ引き受けたと思われます。加えて、群衆を教え終わったイエスはシモンに「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われた。徒労に徒労を重ねよとでも言うのでしょうか。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。「しかし、お言葉ですから」とは仕方なしに答えたように響く言葉です。そこには「しかしお言葉ですが」という響きがある。ペトロの心の中には「プロの漁師である俺たちが何も獲れなかったのに、いったいどこの誰だか分からないアマチュアが何を言うか 」というつぶやきさえあったように思えます。

「しかし、お言葉ですから」と言ってペトロはイエスの言われたとおりにしてみます。これがなかなかペトロの偉いところです。結果は、二艘の舟が魚で沈みそうになるほどの思いがけぬ大漁でした。徒労と失望は一転して驚きと喜びへと転じる。否、事はそう単純ではありません。その出来事に驚愕したペトロは、「しかし、お言葉ですから(お言葉ですが)」と言った自らの不信仰を恥じ、神の裁きに恐れおののくのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と主の足下にひれ伏します。ペトロのイエスに対する呼び方が「先生」(5節)から「主」(8節)に変わっていることにも注意してください。自分の漁師としての経験や智恵に基づくペトロのプライドや過信が打ち砕かれるのです。彼はそのとき初めて、本当の意味で恐るべき聖なるお方を発見したのだと言えましょう。どん底で彼は主と出会うのです。そして、イエスの中に神のご臨在を感じ、神に言い逆らった不信仰に対する厳しい審きを恐れた。

しかし、罪を告白したペトロに対する主イエスの言葉は「恐れることはない」というものでした。それは審きの言葉ではなく、ペトロの告白を受け入れ、赦す言葉です。それだけではない。イエスは彼らを弟子として招き、新しい人生の目的を彼らに与える。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。それは大いなる祝福の言葉のようにも響きます。そこで彼らは主の言葉に、今度は迷うことなく、「直ちに」従います。舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従っていったのです。最初の弟子たちの召命、召し出しの記事でした。

「人間をとる漁師」というキーワード

本日の箇所にはいくつものキーワードがあります。そのうちの「人間をとる漁師」「沖に漕ぎ出しなさい」「しかし、お言葉ですから」という三つに焦点を当ててみたいと思います。

「人間をとる漁師」という言葉は意訳であって、実は正確な訳ではありません。それは「あなたは人間を生け捕るであろう」(佐藤研訳)という言葉なのです。「人間を生け捕る」というのは、実は「(本当の意味で)人間を生かす、人間に生命を与える」という言葉が使われています。捕まえて殺すのではない。生かすというのです。キリストの福音を伝えることによって人を生かす。私たちは食事をすることによって生命を保つことができます。私たちが食べる食物は、それ自体生命を持ったものでした。お米も野菜も魚も肉も、すべて生命あるものが私たちに生命を与えるために死んでくれた。私たちはそのような生命をいただいて生きるのです。キリストは「わたしは生命のパンである」とおっしゃり、ご自身を私たちを生かす生命のパンとして与えてくださった。このキリストの生命をいただいて私たちは生きるのです。聖餐式はそのことを表しています。主がペトロにあなたはこれから人間を生かすために働くのだと言われたのは、そのようなキリストの生命を人々に与える福音を宣べ伝えるという働きにペトロたちは召し出されたいうことです。

「沖に漕ぎ出しなさい」というキーワード

次のキーワードは「沖に漕ぎ出せ」という言葉です。ここで「沖に」と訳されているのは「深いところに」という言葉なのです。「もっと深いところに行きなさい」と主は命じている。この「深いところ」とは私たち人間がよく知っている場所ではありません。私たちにとって未知の場所を意味します。私にとってたいへん興味深いのは、主が「もっと深いところへ行きなさい」と命じることと、ペトロが自分の思いを深く掘り下げていったことが対応しているという点です。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったペトロは、最後には自分の内面の奥深くにある罪に気づかされ、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という告白に至るのです。ペトロはこの出来事を通して、自分を深く見つめさせられ、掘り下げてさせられていったのです。「もっと深いところへ漕ぎ出しなさい」という主の言葉は、その意味では「あなたの心の深みに降りてゆきなさい」という言葉としても受け止めうると思います。私たちは自らの心の深いところにある罪を知るように招かれていると言ってよいのではないか。自分の罪深さを知るとき、私たちはその深い恐れとおののきの中で、どん底で、私たちは主の確かな声を聴くのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。そのとき私たちは「しかし、お言葉ですから」としぶしぶ従っていた生き方から、主に招かれた漁師たちがそうであったように、不思議なことに、喜んですべてを捨てて主のみあとに従ってゆく生き方へと変えられてゆくのです。

「しかし、お言葉ですから」

本日最後のキーワードである「しかし、お言葉ですから(お言葉ですが)」という言葉は、ヨナ書のことを私たちに思い起こさせます。ご承知のようにヨナは、ニネベに行って「40日でニネベの町は滅びる」と預言しなさいという神の言葉に逆らって逃げ出して、結局は大きな魚に飲み込まれて連れ戻された人物です。あるいは、頭の上で陽の光を遮る一本のとうごまの木を惜しむことで、神がニネベの12万人以上の人々の生命を惜しむということを知らされた人物でした。神さまはそのようなヨナをも慈しみをもってご自身の僕として用いてくださる。そこから考えると、「しかし、お言葉ですから」と言ってつぶやきがちな私たちをも、私たちの思いを越えて、主はご自身のご用のために豊かに用いてくださるということに思いを馳せることができるように思うのです。それが「恐れるな」と繰り返し私たちに告げられる言葉の真の意味であるように思います。

「『しかし、お言葉ですが』と言ってしまう自分自身の小ささ、弱さ、罪深さを恐れてはならない。私はあなたを裁かない。あなたに新しい使命を与える。福音に生き、喜びに生きなさい。そしてその喜びを多くの人と分かち合いなさい。この喜びこそが人に本当の生命を与える神の霊の息吹なのだから。あなたはこれから私の与える福音によって自分を生かし、また人を生かすものとなるのだ。恐れてはならない。私に信頼しなさい。私があなたがたを遣わす。あなたは今から人間をすなどり生かす漁師となる。私の言葉を信じ、もっと大胆に、そしてもっと深いところに漕ぎ出しなさい。喜びの宴があなたを待っているのだから」と。このような招きの言葉に押し出されつつ、私たちはこの新しい一週間をもキリストのみ後に従ってゆきたいと思います。