説教 「弱さの中を」 小泉基神学生

ルカによる福音書 4: 1-13

四旬節を迎えて

街は、春を待つ空気に満ちてきています。少しずつ水は温み、吹く風も、しだいに、春の匂いをたくさん運んでくるようになりました。明日からいよいよ3月に入り、文字通り、春が始まろうとしています。教会もまた、そのカレンダーの頁をひとつめくり、新しい季節を迎えています。今朝から、キリストの復活祭、イースターを準備する、四旬節がはじまっています。しかし、生命の再生の季節である春にむかうために、わたしたちが、冬の厳しい寒さを越えていかねばならないのと同じように、キリストの復活を祝うために、わたしたちはそのキリストの痛みと苦しみ思い起こし、これを越えていかなければなりません。

先ほど聖書を読んで戴きましたけれども、わたしたちの教会では、四旬節の最初の主日の福音を、毎年、イエスさまの荒野での誘惑の箇所、イエスさまが、痛み、苦しまれる存在であることが明らかにされる、この、荒野の誘惑の記事から聞いていきます。そして、この箇所の本文に入っていきます前に、まずわたしたちが気づくことが出来るのは、この記事が、イエスさまの系図の記事と、ガリラヤでの伝道の開始の記事とに挟まれて、その間に置かれていることです。つまり、ガリラヤでの宣教が始まる前に、この宣教を始められる方がどのような方であるのか、そのことが今朝の福音書の箇所から明らかにされるのです。

この方は、悪魔から誘惑をお受けになる方である。そしてその誘惑と闘い、その闘いに勝利される方である。そのことが、宣教の開始に先立ってまず、明らかにされます。誘惑をお受けになる方であって、それに勝利される方である。わたしたちが仕えようとする主は、そのような方であります。今朝は、そのことの意味について、みなさんと共に、もう少し考えてみたいと思うのです。

弱さの中を

この、荒野での誘惑の物語は、よく知られていますように、悪魔による3つの誘惑から成っています。そして、イエスさまは、この3つの誘惑をお受けになる前に、すでに40日にもわたって、荒野で何も食べないまま誘惑を受けておられたのでした。「その期間が終わると空腹を覚えられた」と、聖書には書いてあります。別の翻訳を見ますと、「最後には飢えていた」とあります。イエスさまはお腹をすかせ、飢えておられた。そのことが、いわば、誘惑の物語の前提になっているわけです。

わたしたちがイエスさまと出会っていくときに、まずイエスさまはお腹をすかせた、飢えた姿でわたしたちの前に登場される。そしてそのことは既に、ある種の不思議な、出来事であります。このことは、イエスさまの弱さを、表しているのではないでしょうか。お腹をすかせている、飢えていて、何か食べ物を欲しておられる。自分のために、空腹を満たしたいと感じておられる。それは、イエスさまの弱さに違いありません。

みなさんも、先週には、イエスさまの山上での変容の物語から、福音を聞かれたと思います。イエスさまの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝かれる。栄光に輝くイエスさまのお姿。これは、神の子としてのイエスさまの姿でした。それは、飢えや空腹など、感じるはずも、またその必要もないような、完璧な存在、神の子としての、さらに言えば、神としての、完全なイエスさまの姿でした。そのことを考えますと、今週のイエスさまは、そこから全く異なった、全く対極にある、弱さを負った存在として、ここにおられるわけです。何かスーパーマンのような、悩みも痛みも全然問題にならないような、超人的な存在として、栄光に輝く神の子として、悪魔をこてんぱんに返り討ちにしてしまうような、そのようなイエスさまではない。お腹をすかせ、そして飢えておられる、この方は、わたしたちの弱い心の動きを理解してくださる、わたしたちの空腹をも共に感じてくださる、そのような存在として、悪魔の誘惑と闘われるのです。地上でのイエスさまが、そのような弱い存在として生きてくださったということは、弱さの中にあるわたしたちにとって、大きな慰めであるだろうと思うのです。

話は変わりますが、先々週、韓国を旅行しました。ぶらぶらと市場を歩いていますと、ブランドものの靴や鞄の、コピー商品を売っているようなお店が沢山、軒を連ねていました。それで、そうしたお店の前を通りかかりますと、お店のお兄さんたちが、寄ってきまして、少し小さい声で、「完璧なニセ物あるよ~」と声をかけてくるのです。何軒もの店で、どこでも同じように「完璧なニセ物あるよ~」といわれるので、面白いなぁ、と思いながら聴いていたのですけども、まぁ普通考えますと、コピー商品というのは、完璧ではないからコピー商品なんであって、完璧なコピー商品というものがあるとすれば、それはニセ物ではなくて、本物だということになってしまいます。ですから、「完璧なニセ物」というのは、その表現自体が、すでに形容矛盾だろうと思うのです。それで、関西人のわたしとしては、内心、それは「完璧なニセ物」ではなくて、「完璧にニセ物」ということじゃないか・・・と、いちいち心の中で突っ込みを入れながら、買い物をしてきたわけです。

話が少しそれてしまいましたけれども、イエスさまというのは、一方では完璧な存在としての、光り輝くような神の子であるわけです。それは、韓国のお兄さん風にいうなら、「完璧なニセ物」つまり本物ということですけれども、その完璧な存在、本物であるイエスさまが、この地上の上では、不完全な本物といいますか、弱いところを晒しながら生きていかれる。完璧など、とうてい望むべくもない、そのような弱いわたしたち、敢えて言うなら、ニセ物と言ってしまってもいいような、そのようなわたしたちと同じ弱さの中で生涯を送られるのです。

悪魔から、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と、問われたときに、イエスさまは、ご自身の力によって、奇跡によって空腹を満たすような方法をお取りになりませんでした。わたしたちがお腹をすかせてじたばたするのと同じように、その弱さの中で、空腹に耐える道を選択されるのです。この、パンの誘惑は、わたしたちにとりましては、わたしたちの生活への誘惑というふうに考えることが出来るでしょう。空腹を満たすこと、生活のための糧を得ること、仕事、子育て。わたしたちが生きていくために不可欠だと考えていることのすべては、このパンの誘惑に置き換えることが出来ます。そして残念ながら、完璧な存在ではありえないわたしたちは、究極的にいって、この生活への誘惑から自由になることはできません。誰でも、何処にいても、自分を生かすための、細々とした生活の煩わしさから自由になることは出来ないのです。40日どころか、半日も空腹であることに耐えられない、わたしたちはそのような不完全な存在でしかないのです。ですから、もしイエスさまが、魔法でも使うように奇跡によって空腹を満たされたのだったら、わたしたちは、自分と自分の家族を生かすことに汲々としながら、ただ、奇跡を待ち望むしかない、誰かが超人的な力で自分を救ってくれることを、ただ待っているしかないような、そのような存在として、この地上に取り残されてしまったのかもしれません。しかし、イエスさまは、そのようにはされません。ですから、わたしたちは、イエスさまがそうされたように、空腹に留まってもいい、飢えに耐えながら、わずらわしい生活の闘いの中で、じたばたすることに留まってもよいのです。わたしたちの、そのようなじたばたした闘いに、イエスさまもまた、共に留まってくださるのです。

悪魔はさらに、権力への誘惑へとイエスさまを誘います。この誘惑もまた、わたしたちの弱い部分を根こそぎ持っていってしまうような、甘美な、甘い響きがあります。わたしたちは、わたしたちの弱さを知っていて、それを隠したいと思っていますので、自分を飾ったり、繕ったりして、少しでも他の人よりも上に立つ人間であるかのように振る舞おうとします。自分をよく見せたい、他の人から尊敬されたい。このような願いもまた、わたしたちがそこから自由になることが本当に困難な、わたしたちを縛ろうとする重い鎖のひとつであるに違いありません。

そして最後の誘惑は、神殿から飛び降りてみることによって、神があなたを守っておられることを確認したらどうか、という声でした。そうすれば、神があなたを、空中で支えるだろう、というのです。この声も、巷で聴くならば、一見して誘惑であるとは判別できないような声でもあります。誘惑者は、わたしたちの弱さを突くために、聖書の言葉すら巧みに用いようとします。そして、わたしたち自身が、「わたしを守ってください」と、祈りを重ねていることも、事実でしょう。安全でいたい。脅かされないで生きていきたい、という欲求、これも人間の本能的な欲求のひとつといえます。日本の社会でも、家を建てる時には地鎮祭をする、自動車を買ったら、交通安全のお守りを買いに行く、このような習慣は、ごく自然な信仰心と結びついています。

しかし、わたしたちがしばしば口にします、「神さま守ってください」という祈りの言葉さえ、わたしたちの心の暗いところと結びついていくならば、容易には避けることが出来ない誘惑となっていきます。それは、安全でいたい、安心していたい、という思いが、常にわたし自身に向いていくときです。どんなことがあっても、どんなことをしていても、わたしの安全を、わたしの安心を保ってください、と祈るとき、そこには簡単に、自己中心の思いが忍び込んでくるからです。そしてこの自己中心の思いは、わたしたちの間の身近な人間関係であれ、政治家同士の駆け引きである国際政治の場であれ、その関係を貧しいものへ、あさましいものへと変えてしまう、その要因となっていくのです。自分だけは守られていたい、という思いは、他者を信じることから信じないことへ、信頼から疑心暗鬼へと、わたしたちを、簡単に突き動かしてしまうのです。

一昨年の9月11日以来、わたしたちの世界は、この不信と疑心暗鬼とを、痛みを持って経験させられています。信頼への道は険しく、不信への道は安易であることを、この誘惑者の声は、よく知っているに違いありません。確かに、相手を信頼することには、リスクが伴います。場合によっては、自分が信頼した相手から、裏切られることになるかもしれません。そして、その信頼した相手から裏切られたとき、わたしたちの心は最も激しく傷いて、そして人は、もはや信じるまい、と、人を信頼していくことを放棄していってしまうのです。傷つけられることを怖れて、信頼ではなく不信と疑心暗鬼をもって、関心ではなく無関心と利害関係をもって、相手との距離を測ろうとし、傷つけられることを怖れるあまり、傷つくことのない関係しか結べなくなってしまうのです。

今日の中高生が、傷つけられることを怖れて、そのことを予防するかのように毎日毎時間、携帯メールの交換に余念がないことも、また9.11以降のアメリカ合衆国の対外政策が、少しでも自分を攻撃する可能性のある国や組織を、相手より先に、徹底的に攻撃して潰してしまおうとすることも、傷つけられることから逃れたい、安全でいたい、安心していたいという、わたしたちの心の弱い部分の反映であるのでしょう。たとえ傷つけられる怖れがあっても、他者を信頼していく、そこで自分自身を晒していく、そのことによって、相手との新しい関係、より深い関係、相互に信頼しあう関係を築いていく、そのような強さを、わたしたちは、なかなか持てないでいるのです。これが、弱いわたしたちの現実であります。

しかし、今朝わたしたちが、四旬節のはじめにあたって考えたいことは、イエスさまが、空腹を空腹として耐える道を選ばれた、ということです。神の子であって、完全な存在であるイエスさまが、奇跡を起こして簡単にご自分を救うことのできるイエスさまが、わたしたちと同じように、空腹を空腹として耐える、という選択をされた。それは、イエスさまが、わたしたちと同じように、弱さの中で空腹を体験されることによって、わたしたちを信頼してくださった、不完全な者として、わたしたちと同じ弱さを負い、わたしたちを信頼して、共に歩む道を選んでくださった、ということに他ならないのです。わたしたちが、イースターまで続きます四旬節を通して学びますことは、そのようにしてわたしたちを信頼して歩んでくださったことによって、裏切られ、傷つけられたのは、イエスさまご自身であった、ということです。

この、わたしたちの弱さ。自分のパンだけを確保しようとし、押しのけてでも人よりも上に立とうとし、そして自分だけの安全を守ろうとして人を信頼しようとしない、そのようなわたしたちの弱さが、わたしたちを信頼してくださったキリストを裏切り、孤独の内にゴルゴダへの道を歩かせたのでした。キリストは、あなたを信頼されたが故に、裏切りの中であざけられ、むち打たれ、まさに、弱さの中で、十字架へと登られたのでした。そして、死に勝利され、三日目に甦られることによって、今なお、あなたへの信頼に生きてくださいます。生活を守るためのパンではなく、命を生きるためのパンとして、イエスさまご自身の体を裂いて与えてくださることによって、あなたを信頼するだけでなく、その信頼に応えるすべもまた、与えて下さるのです。それは、いのちのパンによって、わたしたちが信頼する存在へと変えられていくために他なりません。

わたしたちが仕える主。それは、わたしたちの自尊心でも、生活を守るパンでも、安全を保障してくれる自衛力でもありません。ご自身が弱さの中を歩まれることによって、わたしたちに信頼に生きるすべを与えてくださる、主イエスキリスト。ご自身の体をわたしたちに与え、死に勝利することによって、わたしたちをも、この勝利へと与らせてくださる、主イエスキリストに他ならないのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年2月29日 四旬節第一主日礼拝説教)

小泉基神学生は、2004年3月に神学校を卒業、3月7日に教職按手を受けられます。任地は九州教区建軍教会と甲佐教会。