『ルターの祈り』本のひろば書評  大柴譲治

「主権」と「イニシアティブ」は常に神の側にある。「シェマー、イスラエル!」(申六・五)とあるように、神が語り、人がその声を聴くのである。どこまでも神が主、人間は従である。ここで私は「聞く」より「聴く」という語を、それも許されるなら「聽く」という旧字体を使いたい。「聖」が「王の口から出る言に耳を傾ける」、「徳」が「目と心で十全に受け止めた王の言を行う」という意味を持つと同様、「聽」という語は本来「耳と目と心を一つにして、十全に用いて王の声に耳を傾ける」という意味を持つ。向こう側から響いてくる聖なる存在(YHWH)のみ声に耳を澄ませ、無心になって全身全霊を傾ける。神が語り、人が聽く。これこそが聖書が私たちに求める「祈り」の姿勢であろう。この『ルターの祈り』はそのことを読む者に豊かに体験させてくれる。

ルターがいかに徹底して「祈る人」であったかがよく分かる。今から三年後の二〇一七年に「宗教改革運動 Re-formation」は五百年の節目を迎えるが、「祈るルター」を知ることは私たちの原点を再確認することでもあろう。ルターは毎朝毎晩、しばしば食事中にも祈りを捧げた。歩きながらでも立ったままでも、「独特の仕方」で天に向かって手を挙げ、目を上げて声に出して祈った。だからこそ、卓上語録や「われここに立つ」というウォルムス国会での言葉のように、周囲に記録された祈りも多かったのであろう。ルターの祈りは声に出して祈るとよい。彼はしばしば祈りの中で詩編と教理問答を用いる。その意味でも修道院での体験はルターの中で後々まで生き続けていた。

ルターの祈る姿勢についての証言:「しばしば彼は、お客を食卓に残して窓辺に退き、ひとりで半時間以上も祈った」(マセシウス)、「勉学に最もよい時間のうち少なくとも三時間を祈りに費やさない日とてはなかった」(ディトリッヒ)、「ルターがウォルムスで経験したことは、彼の自室での祈りにふれなくては完全とはいえない。……この祈り(七九-八一頁)も彼の偉大な讃美歌『神はわがやぐら』の散文版である」(H・E・ジェイコブス)。

私たちにとって祈りは「霊的な呼吸」である。呼吸が止まったら死んでしまうように、祈ることを止めたら霊的に生きてはいけない。神がご自身の「息(ルーアッハ)」をアダムの鼻に吹き込んで「いのち」を与えたように(創二・七)、私たちもまた神の息を吸い込んで生きる。神の呼気は人間の吸気、人間の呼気は神の吸気である。「インマヌエルの神」は傍らで私たちと「呼吸を共にしてくださる神」なのだ。「礼拝」とはそのような神の「安息」に共に与る時空間でもあろう。

神は必ず祈りを聞かれるとルターは信じていた。それが神に喜ばれ、必ず聞き入れられることを疑ってはならないが、いつでも祈る通りに適えられるとは限らない。それがどのように実現するかという「時、場所、分量、目的などは、神がよいようにしてくださることを信じて、神にまかせるべきである」(『善きわざについて』)。編者の石居正己氏はあとがきにこう記す。「神が語ってくださることを信じることができるということにまさって大きい出来事はない。またそれに答えて祈る祈りが教会を保ち、支えてきたのである。……ルターは、神が祈るべきではないと言いたもうなら、それについて願うことをやめるべきであるとして、神の主権を確保しつつ、しかし実際の問題には『私たちは祈るなという命令をもっていない』、むしろ、『祈れという命令を受けている』と述べている。神の全能の主権と、その恵みのみ心への確信が、祈りを支えている柱なのである」。

最近、祈りに関して「さかなとねこ」が大事と伝え聞いた。「讃美、感謝、慰め、執り成し、願い、告白」の最初の語を組み合わせると確かにそうなる。うまいことを言うものである。一五〇ある詩編の四割が嘆きの詩編なのだから、「慰め」のところに「嘆き」を加えることもできよう。私たちが神に祈ることができるということは何という恵み、何という喜びであろうか。生き生きとした霊の息吹きを感じさせてくれる有益な書物がここに再版されたことを喜びたい。

(  おおしば・じょうじ=日本福音ルーテルむさしの教会牧師)