説教「そのまま受け入れよう – 福音の喜び」(要約)  石田 順朗

聖霊降臨後第17主日礼拝
武蔵野教会 2013. 9.15
テキスト: 出32: 7-14; ルカ 15: 1-10; 1テモテ1: 12-17
石田 順朗


序 本主日、聖書日課の使徒書は新約聖書にある3冊の牧会書翰の一つ。テモテへの2書は2世紀の始めにパウロの名で書かれた書簡で「異なる教え」に対する警告を主な内容にする;この「異なる教え」とは当時のグノーシス主義([ギ]認識・知識を意味する覚知主義)。物質/霊や真の神/偽の神 といった二元論を基盤にして、キリスト教の伝播と同じ頃、地中海沿岸に広まった当時最大の思想(宗教哲学)。テモテの父はギリシャ人非キリスト者、母はユダヤ人キリスト者2代目と伝えられる。

 冒頭に「異なる教えにつての警告」(vv. 3-11)に続いて「神の憐れみに対する感謝」が述べられる。神を冒どくし信徒を迫害したパウロ(サウロ)が神の憐れみを受け「主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛とともに、あふれるほど与えられました」と結ぶ自ら使徒となった召命体験の証し。今朝は特に、この証しの始めに「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」の言明に注目したい。震災後、「想定外の激甚災害」ほか形容詞、副詞の幅が大きくなり続けるなか、「そのまま」はたいへん意義深い表現。「・・という言葉は真実である」は聖書学者の云う「牧会書簡特有の引用定式」。ところがそれに「そのまま受け入れるに値します」が付加されている点が、実は今朝、私たちへの福音のメッセージ。今日、「そのまま」ということが「そのまま受け入れ難い」状況に囲まれて、私たちは生活しているから ー

 この夏は暑中見舞いに、激暑、酷暑、猛暑、極暑のどれを選ぶか、それこそ暑過ぎて難しかった。激しい大雨には「ゲリラ豪雨」を超える最大級の形容語が見当たらず気象庁は苦慮した。それに災害心理学者のいう「正常化の偏見(正常性バイアス)」と呼ぶ心理状態、つまり人は異常な状況に直面しても「大変だ、これは非常事態だ」という心の切り替えが中々できず、「大したことにはならないだろう」、「自分だけは大丈夫だろう」と思い込む危険や脅威を軽視することがしばしば起った。安全神話の環境に長年安住してきたこともあって、現に災害発生時に、避難や初動対応などの遅れが頻繁に起った。こうした状況を見据えてか、遂に「これまでに経験したことのないような短時間、局所的大雨」が用いられ「直ちに生命を守る行動をとるよう、最大級の警戒を!」と気象庁から、それこそ「これまでにない」緊急[勧]警告が発せられた。しかも「川の流れのように」の詩情をかき消す「土砂流」の残骸を見た。積乱雲を「入道雲」と呼んでいた夏の風情を吹っ飛ばして「スーパーセル」の竜巻警報に震え上がった。 

 それだけに、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の更なる解明に基づく再生先端医学と併行して、今日、最優先すべきは建物の耐震性を高めることだとする防災対策の急務も叫ばれる。再生医学のお陰で更に長寿を全うし、より多くの人々への水や食料の膨大な蓄えも必要。つまり、「生き残ってから」のことよりも、まず「生き残るため、死なないための努力」を先に行うべきだと叫ばれ出した。

 こうした中、2千年来、全世界で語り伝えられてきた「イエス・キリストの福音の喜び」を、形容詞、副詞の増幅をいささかも気にすることなく「そのまま」受け入れることのできる私どもは、誠に幸い! なぜか?

I. 神より賜わるお恵みを「そのまま受け入れることができる」のは、第1に、信徒
 とはいえ偶像崇拝に走りやすい私たちを今一度「思い直され赦してくださる神」だから。

 本主日の第1の日課は、神がシナイ山でモーセと語り終え、二枚の十戒の石板を授けられたが、その間、モーセが山から中々おりて来ないので、群衆はアロンのもとに集まって来て「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と願い出たときのこと。集めた金を溶かして「若い雄牛の鋳造を始めた」。それを見たモーセは、怒りのあまり、二枚の十戒の石板を投げつけて砕いた。モーセの怒りは、神の怒りであり、そこでモーセは、民のために執り成しの祈りを捧げた。モーセの祈りに応えた神は再び十戒の板を授けられた。これが、今朝の旧約聖書の日課。モーセの執り成し。王、預言者と並ぶ「祭司的役割」)を示す(イエス・キリストの3権能を予告するように)。

「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」(V. 12) まさにイエスの「執り成し」、「十字架のあがない」の予告。と同時に、もう一点大事な点、なぜ神は「戒しめ」を与えたか?そもそもの発端(動機)を思い出させる:出20: 1〜(十戒)。「十戒を授ける」出来事の冒頭に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とお語りになり、その上で、「あなたは、わたしをおいて他に神があってはならない」と第一戒を授けられた。

  このいきさつを明確に指摘して教えてくれたのはルター。『十のいましめ』への解説を『小教理問答書』で読もう。「第一のいましめ」への答 「わたしたちは、なにものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです」が、「第二のいましめ」以降 すべての「答」の筆頭に繰り返される!次いで、「それで」、「むしろ」に導かれる「肯定・積極化した答」が列記されている(十戒の自由化)。

「神さま、仏さま、稲尾さま− 田中さま」の世相とは裏腹に、大気汚染その他、神の創造への侵略が続行、現代の「グノーシス主義」(理性万能主義)が蔓延する中、熟考を要することでは? 宇宙制覇、iPS細胞再生医学に伴う深い倫理的側面など山積する課題が人類の前途に横たわる。それだけに、イエス・キリストの十字架の「執り成し」の故に、今一度、悔い改めて創造者なる神のみ前にひれ伏し、「思い直され、赦してくださる神」のお恵みを「そのまま」素直に受け入れたい。


II. 神より賜わるお恵みを「そのまま受け入れることができる」第2の理由は、「失
 われたもの」が悔い改めて見出され、たち帰るのを喜ぶのが他ならず神だから。

 今朝の福音書の日課は、わたし自身にとって、生涯忘れ難い最も重大な箇所。

 日米開戦後三年目、全国学童疎開もたけなわ、私は、姉、妹と共に、郷里山口へ強制疎開となり、山口中学三年編入の一時期を、光(市)海軍工廠への動員された。今にして思えば、あの時組み立てていたのは、「人間魚雷・回天」であったのだろう。ところが、熾烈な空爆で再疎開を余儀なくされ、福岡は久留米市の親戚宅を経て朝倉郡(現朝倉市)の住職が遠縁に当る真言密寺、医王山南淋寺に身を寄せるようになった。たまたま書斎で目にした(たしか文語訳[大正改訳]の)『聖書』を拾い読みした。本来、父が仏寺の門徒総代を務めるような家で育ったせいか、『般若心経』や「お経」をそら覚えで唱えていたこともあって、『聖書』には、何か異質的な記事の合間に、意外と判り易い日常的な物語や出来事などの記述もあり、それだけに、なぜ神聖な「経典」になるのだろうと訝ったりした。ところが、突如、「ルカ傳福音書」十五章で「失われたもの」の譬えが三つとも「天(父)にある喜び」で結ばれていることに気づいて不可思議に思えた。戦争末期症状のただ中、「助け出された者」の側にではなく、「遂に救い出した者」の喜悦が大きいとされていることであった(日本キリスト教団出版局編『主の招く声が 』より抜萃、pp.137-8)。

「見失った羊」の譬えは「悔い改める一人の罪人については、九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」で、「無くした銀貨の譬え」では「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と明記される。神は、私たちが寝ても覚めても、四六時中、たえず私たちを見守っていてくださる。迷い出れば、立ち返るまで私たちを隈無く追い求め、徹底して探し出してくださる。しかもこの私が目覚めて立ち返れば、ご自身のことのように喜んで下さる。

「失われたもの」が悔い改めて見出され、たち帰るのを喜ぶのが他ならず神である福音の喜びを「そのまま受入れよう」。

III.「そのまま受入れようー 福音の喜び」
「つながらないと悩み増え」インターネットに依存している疑いの強い中学、高校生が全国で約51万8千人にのぼると推計されるのは予想以上に深刻な実態だ。インターネット(www)ではさまざまな情報が飛び交っている。たしかに、好みや考え方の似た人たちだけでコミュニティーをつくり、そこでは密接な情報交換が行われている。でも同時に、異なる意見や見解をもつものには攻撃的(サイバー攻撃)になるといった状況も重なる。多くの人々が同じ時間を共有しつつ共通の話題について考えるという場面が少なくなったり、全くなくなったりしては、社会の、それに、家庭内の分断が進むだけ。その証拠に、インターネット時代特有の「偏狭さ、閉塞性」が起っており、更に「ひきこもり」などの問題も誘発されている。数年前の悪夢「秋葉原通り魔事件」に見られたような「ネット犯罪」がその後も続発。

 他方、「生き延びようと努める」私たちの生活の一部始終が、今や「防災カメラ」が「監視カメラ化」して、「カーナビ」で自動操作されているような「監視社会」での毎日だ! ところが −

 イエス・キリストをお遣わしになり、そのみ子の十字架のあがないによる「執り成し」で「思い直される神」、「失われたもの」が見出されたとき「喜んでくださる神」。こともあろうにこの「神の監視、いや 見守りー 神の顧み」のもとで私たちは生活している。実に「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」。

 人知では到底諮り知ることの出来ない「この福音の喜び」を「そのまま受入れる」幸いを、父と子と聖霊なる神に感謝し、引き続いて神のお導きとお恵みが豊かにありますように。