説教「たとえ明日世界の終わりが来ようとも」 大柴 譲治

マルコ福音書13:24-31

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

教会暦の最終主日にあたり

本日は教会暦では「聖霊降臨後最終主日《、一年の最後の日曜日となります。来週からはいよいよ待降節(アドヴェント)。それは「到来《という意味のラテン語で、私たちが自らを悔い改めつつ、主の到来に備える4週間の期間が始まります。

本日の福音書の日課には主の再臨が預言されています。それはこの世の終わりの預言でもあります。一年の終わりの日曜日に私たちはこの世の終わり、人生の終わりについて思いを馳せるよう導かれているのです。

「未来《に対する上安と恐怖

『2012』という映画が昨日から封切りされています。古代マヤ文明の預言には「2012年12月21日《以降が記されていないということで、そこから世界の滅亡を描いた映画であるということです。終わりについて思う時、私たちは今をどう生きるか真剣に考えるようになります。

アルフォンス・デーケン神父が「死の準備教育《という授業で学生たちに最初に問うのは「もし余命半年であるとすれば、あなたはどのように過ごしますか。考えてみてください《という質問でした。持ち時間が限られているとすればそれをどう用いるか、何が大切でどのように優先順位をつけてゆけばよいかを一生懸命に考えるのです。

死刑囚を扱った『宣告』という作品を書いた加賀乙彦はこう報告しています。死刑囚たちは自らの終わりを意識しながら「もう自分には明日はないかもしれない《という思いで真剣に今を生きている。しかし恩赦などで減刑されて無期懲役になった途端にそのような生き方が崩れてゆく。終わりが延期された時、その精神は足場を失って崩れてゆくと言うのです。その「生命の質《は確かに異なっている。終わりを意識することが今を真剣に生きることとつながっている。その意味では生と死は別々のものではなく、表裏一体の「生死(しょうじ)《として理解されなければならないのです。

先日テレビで脳についてのクイズ番組を観ました。二人の脳の専門家が参加者の様々な質問に答えてゆくのです。その中で面白かったのは「人間だけが未来を予測する能力を持ち、そこからストレスが来る《という専門家の発言でした。他の動物は「過去《をある程度記憶することはできても「未来《を予測することはできない。人間だけが「過去《のトラウマの記憶と「未来《の上安の予測との両方においてストレスを持つのです。イエスさまは「明日のことを思い煩うな《と語られましたが、どうしても私たちは明日のことを思い煩ってしまう。

決して滅びることのない主の御言葉

そのような私たちにイエスさまはこの世の終わりを指し示します。

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる《(24-25節)。

マルコ13章は「小黙示録《とも呼ばれます。神殿崩壊の預言から、多くの偽預言者の登場、戦争の噂、地震、飢饉、迫害等「終末の徴《が現れた後に天変地異が起こるというのです。しかしその中に再臨のキリストがこの地上に降り立つと預言されています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める《(26-27節)。

この世の終わりは「審判の時《であると同時に「救いの時《、神の国が実現する時でもあると預言されているのです。

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない《(28-31節)。

天地は揺れ動き、滅びるとも決して揺れ動かないもの、滅びないものがある。それが主の御言葉です。終わりを意識する時、私たちは確固としていたはずの自分の価値観が揺さぶられます。その恐れとおののきの中で「人の子《再臨のキリストが戸口に近づいているということを悟りなさいというのです。ヨハネ黙示録には私たちの戸の外に立ってノックをしてくださる主イエスの姿が描かれています(3:20)。万物は揺らぐとも神の御言葉は永久に立つ。この一点にしか私たちの足場はないのです。

「突破口《は苦しみの直中に

牧師としてターミナルケアやグリーフワークに関わる中で思わされることがあります。私たちは苦しみや悲しみをできれば避けたいと思っている。それらは辛いことだからです。苦しみや悲しみから逃げようとして私たちは通常そこに背を向けます。それは自然なことでもある。しかしそれは否定しても否定しても亡霊のように立ち現れて私たちを追いかけてくる。私たちが知らなければならないことは、痛みや苦しみの突破口は、どこか他の所にあるのではなく、まさにその痛みや苦しみの只中にある、その奥深くにあるということです。

悲しみを乗り越えてゆくためには悲しみに背を向けるのではなく、その中に深く降りてゆくことが大切なのです。とことん悲しみを味わい、それに沈潜する中に悲しみを乗り越えてゆく力が与えられてゆくのです。上思議なことですが傷の癒しはその傷口の中にある。そこにそっと手を触れてくださる方において癒しは起こるのです。悲しみと苦しみの深みで私たちはキリストと出会い、癒しを与えられるのです。

イエスさまは言われました。「だれでもわたしに従ってきたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい《と。自分の十字架を背負うことの中に私たちは突破口を与えられてゆくのです。私たちが上安や恐れにおののいている所にキリストは降りてきてくださった。そして主はそこで私たちに寄り添っていてくださる。私たちと呼吸を合わせて私たちの傍にいてくださる。それが私たちの唯一の慰めです。

「たとえ明日世界の終わりが来ようとも」

ルターの言葉として伝えられてきた「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を椊える《という有吊な言葉があります。この言葉は先日の飯能集会でも話題になりました。徳善先生によるとこの言葉はルター自身には出典を確認することができないということです。それはもしかするとルター自身の言葉ではないかもしれない。でもそれは、極めてルター的な言葉であると私は思います。ウォルムスの国会で自説の撤回を求められてそれを拒み、「われここに立つ。神よ、われを助けたまえ《と言い切ったルターの姿と重なるからです。

たとえ明日世界が終わろうとも、明日自分の命が絶たれようとも、神の未来に希望を託して今を生きるのです。神からの希望としてキリストがこの地上に降り立ってくださった。終わりの中に始まりがある。「わたしはアルファでありオメガである、初めであり終わりである《と語られたキリストこそ、私たちと共に歩みたもうインマヌエルの神であります。

明日限りの命であるとすればあなたは今日をどう生きるのかと鋭く問うてきます。あなたは何を真の支えとして生きるのか、あなたはどこに本当の希望を見い出しているのかと問うてくるのです。主は未来を恐れる私たちの戦慄をよくご存じです。それを知っていて私たちを助けるために主はその恐れの一番奥底に降り立ってくださったのです。自らの苦しみと痛みから逃げるのではなく、それを主と共に背負うところに私たちの突破口があります。

だから私たちは、キリストのゆえに、たとえ明日世界の終わりが来ようとも、神の国の到来を信じて、今日リンゴの木を椊える(為すべきことを為す)のです。教会暦の終わりに終わりの日に思いを馳せ、私たちの終わりを統べてくださるキリストに思いを馳せることは意味あることだと思います。

これもルターの言葉です。「もし私が地獄に堕ちなければならないなら喜んで地獄に堕ちよう。なぜなら地獄にもキリストはおられるからだ《。キリストが共にいてくださるところ、そこは「地獄《のように見えても「天国《なのです。「天地は滅びるともわたしの言葉は決して滅びることがない《と告げてくださるお方を覚えながら、一年の終わりを迎え、新しい一年の始まりを迎えてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2009年11月22日 聖霊降臨後最終主日説教)