最初に石を置いたひと   廣幸 朝子


 「若き日に主を覚えよ」とは至言であろう。不惑の年を迎えようとするころ、はじめて教会というところに足を踏み入れ、初めてまともに聖書に向き合った私には、聖書は石ころだらけの山道を歩くのにも似て、牧師の弁明?注解?解き明かし?なしには到底読み進むことはできなかった。そんな苦労のなかで一箇所だけ、素直に心に響いたところがあった。


 それは、文字通りには到底納得できない数々の「神様の奇蹟」のなかにあって唯一「人間のおこした奇蹟」の物語。即ちヨハネ第8章。姦淫の罪を犯した女を律法に従って石打ちの刑をしようと集まった群集に向ってイエス様が「あなた方のなかで罪のないものがまず石をなげよ」と言われたとき、ひとりの男が石を置いて立ち去る。そして一人、また一人と男達は立ち去り、とうとう誰もいなくなったという。

 これは本当の話だろうか、人はこんなにも内省的なものなのか、日本でも同じことがおこるだろうか。これが最初の素直な感想である。聖書では、人はいつも教えられ、諭され、導かれるものとして描かれている。このように自立した、自省的なものとして人を描いた聖書記者の視点は新鮮であり驚きであった。そしてこれが本当の話であれば、まさに信じがたい奇蹟であるし、架空の話であっても、人権とか、ヒューマニズムとかの概念の全くない時代に想像することすら難しい展開ではないかと、私はいたく感動したのである。

 そして思う。もし最初の人が石を投げていたら、おそらく人々は先を争って石を投げたに違いない。最初の人が石を置いて去ったから(それは年配者であったとヨハネは書き添えている)、人々は、はっと胸をつかれ、自分は何をしているのかとわが身を省みたのである。

 「私はあなたの罪を許す。私はあなたを愛している。だからあなたは・・」

神様からこんなメッセージを毎週頂く私達は、まず、最初に石を置く人でありたい。

 すこし話は違うが、日本は世界に先駆けて武器を置いた。しかしまわりの国々はにらみ合うばかりで、一向に武器を置こうとしない。だから、日本はまた武器を獲ろうというのか。


むさしの教会だより 2013年9月号