【説教】 「隣人になる」 高村敏浩牧師

日課:申命記30:1-14 コロサイ書1:1-14 ルカ10:25-37
God is where God is supposed to be: in our choices, in our struggles, in our joys, and in our grieves. Amen.
神は、神のおられるべきところにおられます。私たちの決断のうちに、私たちの困難のうちに、私たちの喜びのうちに、私たちの嘆き悲しみのうちに。アーメン。

プレイズソングと呼ばれる歌の中に「Jesus Is the Answer」というものがあります。「今、この世界への答えは、イエスだけだ」という、歌いやすい曲と、直接的で力強い内容の歌詞なのですが、この歌の「イエスだけが答え」というメッセージについて、最近よく考えさせられます。私は何も「イエスだけが答えじゃない」、「他の宗教でもいいじゃないか」と主張したいわけではありません。確かにこの世には、人間の生き方を示すいい教えは多々ありますし、そういった信仰を持つ人たちにも素晴らしい方がたくさんおられます。しかし、キリスト者である私たちにとっては、「イエス・キリストだけが答え」であることは必然的であり、譲歩できない根幹です。それでは「イエスが答え」の何に引っ掛かるというのでしょう。それは、「確かにイエスが答えではあるけれども、私たち人間にとってそれは同時に疑問であり、謎でもあるのではないか」ということです。キリスト教のメッセージは、一方で明快です。それは、「イエス・キリストだけ」ということであり、具体的には、日課で律法の専門家が答えたように「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」ということであり、その言葉を生きる、生きられるということでしょう。しかし同時に、そのような答えが目の前に突き付けられたときには、律法学者がそうであったように私たちも、何かスッキリすることができず、自分を正当化したく思って尋ねるのです、「では、わたしの隣人とはだれですか」と。イエス・キリストが十字架を通して顕かにするメッセージは、この上なく明快でありながらも、同時に、私たちを疑問へと、謎へと導きます。なぜなら、キリストが十字架で顕かにするメッセージは、私たちの思いや想像を超えて、私たちに迫って来るからです。日課を見ていきましょう。

派遣された弟子たちが帰って来ました。イエスたちは喜びに満ちあふれます。そのような中、律法の専門家はイエスを試そうとして質問しました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは逆に尋ねます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」すると律法学者は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。正しく答えた律法学者を誉め、イエスは言います。「それを実行しなさい。そうすれば、命が得られる。」律法学者はしかし、さらにイエスを試みて言います、「では、わたしの隣人とはだれですか」。するとイエスは、善いサマリヤ人のたとえを話し始めるのです。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」そうしてイエスは、律法の専門家に尋ねます、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は答えました、「その人を助けた人です。」するとイエスは、次のように言うのです。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

私たちはこの話を、どのように聞くでしょうか。もし私たちがこの話を、倫理への手引きとして、つまりイエスを、倫理の、道徳の教師として聞くのだとすれば、この話は結局私たちを、キリスト教的な律法主義へと導きます。つまり、こうすれば報いが与えられる、永遠の命が神の示す倫理的な生き方への褒美として与えられる、という理解へと導くわけです。しかし、イエスの言わんとすることは、そういうことではないはずです。それでは、どういうことになるでしょうか。それにはまず、このたとえ話を、私たち一人一人が、私の話として聞き、受け取らなければなりません。

善いサマリヤ人のたとえを聞くとき、私たちは自分をどこに重ねるでしょう。この話を倫理的な教えとしてだけ聞くとすれば、私たちはすぐに、サマリヤ人を私たちの生きるべき理想的な姿として受け取ることでしょう。しかし私たちはまず自分を、半殺しにされた旅人に重ね合わせなければなりません。私たち一人一人が、エリコへ下る途中、追いはぎに襲われ、殴られ、半殺しにされ、打ち捨てられた旅人だということです。想像してみてください。あなたの横たわる道を、祭司が、続いてレビ人が通りかかります。二人は、あなたが倒れているその姿をしっかりと認めながらも、関わり合いにはなろうとはせず、通り過ぎて行きました。その後に、今度はサマリヤ人が通りかかります。彼は、あなたの傍に来ると、憐れに思い、手当てをし、宿屋へ連れて行って介抱します。さらには回復に必要なお金を置いて、宿の主人に言うのです、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」あなたが、私たち一人一人が半殺しにされた旅人であるなら、このサマリヤ人は誰になるでしょうか。皆さんはもう、お分かりだと思います。そう、神です。サマリヤ人は何よりも、私たちに関わられる神ご自身の姿を、私たちに示しているのです。私たちの神は、半殺しにされた私たちに近づき、憐みをもって私たちを見つめ、私たちの傷を手当てし、介抱してくださるのです。半殺しにされた私たちは、意識さえありません。私たちの神はしかし、私たちを揺り動かして、「助かりたいか」と確認することもせず、ただただ、私たちを助けるのです。私たちに助かる価値があるから、また助かりたいと意思表示したからではなく、神は私たちを、神の憐みの心によって、助けられたのです。ここに私たちは、「恵みのみによって」という救いを見ます。私たちのゆえにではなく、神のゆえに、私たちは助けられ、救われるということが、顕かにされています。私たちはこのメッセージを、一人一人、自分のこととして、神が、他の誰でもなく、ただ私のためにしてくださったこととして受け止めなければなりません。「あなたのための」神、「私のための」神として、一人一人が、神に出会わなければなりません。そのようにして出会う私たちはしかし、派遣されて行きます。サマリヤ人である神に出会った者、救われた者として、今度はサマリヤ人として、半殺しにされた旅人に出会い、隣人になるようにと召され、派遣されるのです。神の憐れ、神の愛によって救われ、神に出会っていただいた私たちだからこそ、この世にあってサマリヤ人になることができるのです。そのような私たちだからこそ、倫理的な生き方の指針としてではなく、律法としてではなく、キリスト者として、サマリヤ人を生きられるのです。これが、「イエスだけが答えである」ということではないでしょうか。もし私たちが皆、このような神の憐れみ、思いに触れ、気付き、サマリヤ人として生きることができれば、もっといい世界が実現されていていいはずです。皆さんは、どう思われるでしょう。…問題はしかし、実際には、悲しい出来事がなくなるような気配はないということです。そしてこれが、私が「イエスだけが答え」でありつつも、「同時に疑問であり、謎である」と考えさせられる理由です。私たちはなぜかこの、「イエスだけ」がということが分からないのです。どうしてなのでしょうか。それはこの「イエスだけ」が、「キリスト」を、それも「十字架のキリスト」を意味するからではないかと思います。

十字架とはいったい、何でしょうか。十字架とは、一つには、人間の理性の目にあって、神が不在であるということです。マルコによる福音書によれば、十字架に架けられたイエスは、神に見捨てられた不敬の輩です。人々は十字架のイエスを見て、神に見捨てられ死んだのだと思いました。イエス自身十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、その苦しみのうちに息を引き取りました。十字架は、人間が理性の目で見たとき、神は私を見捨てられた、神は私のためにはここにおられないということを意味するのです。しかし十字架はそれだけではありません。実に、この不在のうちに、神があなたのために、私のために、今ここにおられるということを顕かにします。異邦人であったローマの百人隊長が十字架の傍らでイエスを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったように、理性を超えたところで、十字架の啓示は顕かにされるからです。キリストと出会うからです。人間の理性の目で見たときに神が不在である場所において、たとえ神を感じることができなかったとしても、神は今間違いなく、あなたのためにここにおられるということこそ、十字架だということです。これが、私たちの神がキリストであり、それも十字架のキリストであるということなのではないでしょうか。このことを、善いサマリヤ人のたとえで考えてみると、どうなるでしょうか。

善いサマリヤ人のたとえの鍵となるのは、「サマリヤ人」が「サマリヤ人」であるということです。ややこしく聞こえますが、それは、半殺しにされて打ち捨てられた私たちを救ったのは、祭司でもレビ人でもなく、ユダヤ人と敵対するサマリヤ人であったということです。サマリヤ人たちは、その先祖は本来ユダヤ人たちと同族であったイスラエル人たちであり、同じ神を信じ、同じ神を礼拝する、最も近しい者たちでした。しかし、イエスの時代には、ユダヤ人たちはサマリヤ人たちを神に見捨てられた、けがらわしい存在として、また憎しみの対象として理解していました。サマリヤ人は実に、ユダヤ人たちにとっては神の不在そのものだったわけです。しかし、まさにその不在において、つまりサマリヤ人として、神はあなたのために来られ、あなたに出会い、あなたを救われたのだ、イエスはそう言います。理性の目で見れば、神は祭司として、またレビ人としてあなたに現れ、あなたを救うべきでした。彼らが神に仕える者であり、神に近しい者だからです。しかし私たちの神は、キリスト・イエスとして、それも十字架において、私たちにご自身を顕かにします。つまり、サマリヤ人として私たちに現れ、サマリヤ人として、私たちに出会われるということです。神が共におられるはずのない者を通して、私たちに出会われるのです。私たちはイエスに質問した律法学者と共に、このサマリヤ人である神に、十字架のキリストに出会っていることに気付かなければなりません。そしてその私たちは、神に出会った者として、サマリヤ人として派遣されます。半殺しにされ、打ち捨てられた旅人であるユダヤ人へと、つまり今度はサマリヤ人の立場から見れば、敵であり、憎むべき存在であり、神の不在であるユダヤ人へと派遣されるのです。この敵の隣人になるようにと、派遣されるのです。これもまた、十字架のキリストとの出会いです。森優先生は、その著書『聖書研究の手引き』の中で、サマリヤ人として遣わされた私たちは、半殺しにされ、打ち捨てられた旅人こそ、イエス・キリストであるということに気付くのであると言います。そしてそれは、私たちが隣人となるように召されているのは、私たちがすでに愛する者、憧れ、親しくしたいと思う者―理性の目で見れば神の臨在を意味するような人たちへではなく、むしろ、私たちが嫌い、憎み、また無視し、関わり合いたくないとする者―理性の目で見れば神の不在を意味するような人たちへであるということを意味するのです。

十字架において神は、神でありながら、神に見捨てられる経験をします。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びのうちに、私たちのために死なれました。それは、私たち人間の経験する苦しみを経験されたということです。上から同情したのではなく、私たち一人一人の抱える苦しみを文字通り、共に苦しまれたのです。これが、神の憐れみです。私たちは、この十字架という神不在のうちに私のため、あなたのために今ここにおられる神、キリストに出会います。出会っています。たとえ神を遠くにしか感じられないとしても、神をまったく感じることができないとしても、間違いなく、神は私のために、今ここにおられるのだと、十字架はそう約束しているからです。神の憐れみは、私たちの感情や感覚よりも強く、信頼される、確かなものである、十字架はそう約束しているのです。そのような憐みを受けた私たちは、そのような憐みを受けた私たちだからこそ、私たちの理性の目には「敵」にしか映らない人へと―それはもしかしたら、親であり、子であり、兄弟姉妹であり、友人であり、教会の仲間であり、見ず知らずの他人かもしれません―派遣されているのです。なぜなら私たちは、そこに、私のサマリヤ人を通して、私のユダヤ人を通して、間違いなく神が私のためにおられることを、十字架によって知っているからです。そこにおいてこそ、私のためにおられるキリストに出会うことを知っているからです。

「イエスだけが答え」は同時に、「疑問」であり「謎」です。それは、その答えが十字架を通してのみ顕かにされるからです。しかし、まさにその十字架を通してキリストに出会った私たちは、「イエスだけが答え」であることを福音として、善いサマリヤ人のたとえを生きるようにと召され、この世にあってサマリヤ人として、ユダヤ人の旅人の隣人となるようにと遣わされているのです。

人知では、とうてい計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。