IT時代の人間関係  — 気持ちレベルを大切に — 賀来 周一

 珍しく一般企業から管理職研修の依頼を受けて出かけた。人間関係の円滑化についてのなんらかのヒントとなるような話をということであった。この時代、ほとんどの人は日常的にメールを使うようになってきた。企業においては、とくにそうである。メール抜きで仕事はできないのが常態になっている。メールは、会社で机を並べる同僚にも、遠く海外に勤務する仲間にも一瞬にして同一メールが届く。しかもいつもの同じフォントで、きまったような定型文がコンピューター画面に表れ、その内容は会議のための日程調整であったり、業務上の命令と結果報告が中心となる。

 そこに意外な落とし穴がある。気持ちの部分が伝わらないのである。家族のことで頭は一杯だとか、業務遂行で一生懸命頑張ったとか、成果を出すべく何度も失敗を繰り返したが、めげないで仕遂げた結果だとか、体調が悪いにもかかわらず全力を尽くしたなどという部分はメールに反映されない。しかも結果次第では昇進や給与の額にも影響する。

 しかし、人は結果だけで自分を認めてもらいたくはないと思っているものだ。「体調が良くなかったんだって」とか、「そりゃ、大変だったですね」などと気持ちに届く言葉が投げかけられると、ホッとして安心感が生まれるものだ。たとえ失敗しても「頑張ったね」の一言が、もう一踏ん張りする力を与えることもある。

 ところで、人間はどこを認めたり、認められたりしているかというと二つの世界でそれを行っている。二つの世界とは行為と存在のことである。人間の営みは常にこのふたつの世界から成り立っているからである。「よくできているね」、「立派なものだ」などという言葉は、行為の世界が肯定的に認められていることを表している。ところが、行為の世界は人の営みの一部に過ぎない。私という人間の営みは、あれこれさまざまである。だから「よくできているね」と肯定的な言葉が投げかけられても、私という人間の営みの一部が認められたに過ぎない。もちろん、それで嬉しくないことはない。営みの一部でも肯定されれば嬉しいにきまっている。

 でも、これまで述べてきたように、なぜ気持ちレベルへの一言が大切かというと、気持ちへの言葉は、人の存在を求める言葉になるからである。「よく頑張ったね」、「体の調子が悪いのに大変だったろうね」などは、行為に対して向けられた言葉ではない。その人の全体を見ての言葉である。つまり存在が肯定的に認められて、ねぎらいの言葉となっている。「生きていてよかった」という気持ちになるのは、その人の存在が肯定的に認められた時である。

 教会や家族というのは、もともと「あれをした。これをしなかった。」を評価の基準にしていない。つまり行為が評価の基準とならない集団である。むしろ、誰でもその人なりに「いる」ことができる集団である。人が<生きて「いる」>ことを認め合いの基準としている。「互いに愛し合いなさい」とは、<生きて「いる」>存在を認め合いなさいということでもある。Ω

むさしの教会だより 2013年7月号