人生を決定するものは何か  賀来 周一

 人生を決定する要因には、四つあると言われる。第一は生まれつきの素質である。第二に生まれ育った環境がある。第三に起こった出来事があり、最後に自らの決断がある。ここにあげた四つの要因のうち、先にあげた、三要因、つまり生まれつきの素質、生まれ育った環境、起こった出来事が人生に与える影響は極めて大きいことは確かである。時には、これらの三要因で人生が決定してしまったと諦めて生きている人もいる。
けれども、生まれつき目が見えなくとも、体全体を自分の目のようにして、杖を先達にして当たり前のように歩いてくる人や、劣悪な環境から這い上がるように生きて来て、立派な社会的貢献を果たしている人、悲惨な出来事に遭遇したのもかかわらず、めげることなく活き活きと生活している人を見ることも稀ではない。

 心理療法のひとつに交流分析という実践理論がある。その中で「過去と他人は変えられない。変えることのできるのは、今ここの自分だけ」という言葉がよく使われる。人はどうにもならない問題を抱えると「もう少し、頭のよい人間に生まれてくればよかった」、「どうしてこんなところに生まれたのか」、「あのことさえ起こらなかったら」などと過去形の言葉を並べ立て、そこに関わった家族や他人に「こうしてくれればよかったのに」、「あの人があんな風でなければ」と恨み言を言う。

 そこには、過去と他人を変えようとしている自分がいるに気付く。しかし、どんなに嘆いても過去と他人は変えることはできないのである。起こったことは起こったのであって元には戻らない。夫や妻、親兄弟、わが子といえども他人である以上、自分の思うようにはなってくれない。変わることができるのは私自身である。しかも、変わることができるのは、あくまで「今、ここの自分だけ」なのである。変わるためには「今、ここで私は変わる」と決断しなければならない。決断することなしに変わることは有り得ない。

 そもそも私たちの日常生活は、その時その時に選択肢があって、そのどれかを選び取ることで過ぎていく。その積み重ねが人生をつくる。今日何を食べようかに始まり、車で行くか、歩いて行くかを決定し、大きくは、この人と結婚しようかどうしようかにもなる。ついには、生死を賭けた選択をしなければならないこともある。生きるすべての局面で、何を選んで生きるかの私の決断が求められている。その折々の決断が、今日の私の人生となっている。「私は決断なんかしない。人生はなるようにしかならないから」と言ったとしても、なるようにしかならないと決断したのである。

 いずれにせよ、生きている以上は、決断抜きに日々を過ごすことはできない。しかも人はいつも未来に向かって生きている。「今、ここの」私の決断が、これからをどのように生きるかを決定する。
その決断を促すものは何か、それは勇気である。勇気と希望は外から来る。信仰者は、その勇気を「あのお方」から与えられており、これからを歩く希望を見失うことがない。