主の昇天主日礼拝説教 「昇天の主の祝福に生かされて」

使徒言行録1:1-11、ルカによる福音書24:44-53    大柴 譲治


<昇天の主の祝福の姿>
 本日の日課には二箇所「心の目を開いて」という言葉が出て来ます(エフェソ1:18、ルカ24:45)。復活の主が私たちの心の目を開いて下さり、御言を深く悟らせて下さいますように祈ります。
 さて、主は復活後40日に渡って弟子たちにご自身を示されました。そして弟子たちの見ている前で天に挙げられたという「昇天」の出来事をルカは記録しています(ルカ福音書と使徒言行録)。本日は主の昇天主日。次週はペンテコステ(聖霊降臨日)。昇天の意味について御言に聴いてゆきたいと思います。
 そこで質問です。皆さん、教会学校の生徒になったつもりでお考えください。◎問い:昇天された主は天で何をされておられるでしょうか(ヒントは本日の福音書の日課です)。◎答え:主は手を上げて祝福をする姿で天に挙げられました。今も主は天において私たちを祝福しておられるのです(ルカ24:50-51)。
 主日礼拝の最後には毎週牧師が両手を挙げて民数記6:24−26に出てくる「アロンの祝福」と呼ばれる「祝祷」をいたしますが、ちょうどその姿と同じです。「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主がみ顔を持ってあなたを照らし、あなたを恵まれます。主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン」。
 ある註解者たちは、昇天の主がここで、この「アロンの祝福」を用いて弟子たちを祝福されたに違いないと考えています。私たちが「礼拝」に参与するということは、この「昇天の主の祝福に与る」ということでもありましょう。 キリストこそ私たちにとっての「祝福の源」であり「基」です。この「神の」祝福はどのような困難な状況の中でも私たちから決して奪い去られることはない「祝福」なのです。神はどのような時にも私たちの傍らにあって私たちを離れず、私たちと共にいましたもう「インマヌエルの神」「我らと共におられる神」だからです。
 思い起こせば、アブラハムが神の召し出しを受けた時に、神はアブラハムを「祝福の基とする」(口語訳)、「祝福の源とする」(新共同訳)と宣言されました。アブラハムがまだアブラムと呼ばれていた時のことです。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」(創世記12:1-4)。
 神はアブラハムに対して繰り返し、「あなたの子孫は海の砂、空の星のようになり、あなたを通して祝福される」と宣言しています。民数記の中では「アロンの祝祷」は「祭司」に与えられた務めでしたが、宗教改革者マルティン・ルターが語った「万人祭司」つまり「全信徒は隣人に対して祭司としての役割を持っている」というところから見てみますと、私たち全キリスト者がこの「祝福の務め」に召し出されていると申し上げることができましょう。私たちはこの神の祝福をこの世界に伝えるという大切な務めのために召し出されているのです。思えば主ご自身も山上の説教を祝福の言葉で始めておられました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」と(マタイ5:3-6)。「おめでとう!心貧しき人々よ。天の国はあなたたちのものである」と神の祝福を宣言しておられるのです。
 主はこのような神の祝福に私たちを招くためにこの地上に降り立って下さいました。そして今も天にあって私たちを祝福して下さっています。私たちは昇天の主の祝福の中に生かされている。この祝福の中で10日後には聖霊降臨が起こり、教会が誕生しています。主はある時「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました(マルコ13:31)。この昇天の主が与えて下さる「祝福」はたとえどのような出来事が起こったとしても決して揺るぐことのない祝福なのです。

<主の祝福とは何か〜十字架の祝福>
 創世記32:23-33には、ペヌエル(「神の顏」の意)という場所で、ヤコブが「イスラエル」という新しい名を与えられた出来事が記されています。そこでは「イスラエル」とは「神と人々と闘って、最後には勝利する」という意味の名前であると説明されます。この名前には私たちの人生が、最初から最後まで、苦しみや悲しみに満ちた「試練との格闘の人生」であるということが暗示されているのです。ヤコブはそこでもものつがいを外されるという大きな犠牲を払いました。しかしそれを通してヤコブは神の祝福を勝ち取ってゆくのです。このペヌエルでの出来事は、主キリストが与えてくださった「祝福」と重なり合います。それは私たち「新しい神の民イスラエル」のために、主が十字架の苦難と死を経て獲
得してくださったとても高価な祝福であるという事実を私たちに思い起こさせてくれます。十字架上で主は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!(わが神、わが神、なにゆえにわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。しかし、その苦しみと死によって私たちの罪の現実には突破口が開かれたのです。キリストの復活の勝利によって私たちはその祝福の光に照らされ、光の中に置かれている。そのことは礼拝の最後の祝祷において明かです。今もなお主は、見えない神の御国(天)から私たちを祝福してくださっています。礼拝でアロンの祝福を通して響くキリストの声こそ、私たちが「神の御顔(ペヌエル)」と出会う場所なのです。「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主が御顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜ります。父と子と聖霊によって。アーメン」。

<召天された依田早苗姉のご生涯を通して>
 先週の火曜日(5/7)、神学校教会時代からのメンバーであった依田早苗さんが、肺ガンのため日立総合病院において天へと召されました。5/17に78歳の誕生日を迎えられるはずでした。依田さんはつい先日の3/31のイースターの礼拝に出席され、また4/17(水)のいとすぎの例会に「皆さんにお別れをしたいから」ということで出席されていました。5/9(木)の夜に日基教団日立教会で行われた告別式に、私はいとすぎのメンバーの和田みどりさんや永吉さん、久埜さん、そして(神学校教会で早苗さんから奏楽者としてのバトンを受け取られた)中山康子さんと共に参列いたしました。お兄さまの堤旭さん御夫妻もご参列されていました。150人ほどがお見えになったでしょうか。告別式後に東京に帰られる中山さんと久埜さんを日立駅にお送りしてから、私たち三人は駅の近くのホテルに一泊して、翌日教会で行われた出棺の祈りと斎場での火葬に立ち会わせていただきました。その後で依田さんの御自宅のお庭を訪問させていただいて帰ってまいりました。主を失ったその広いお庭には、様々な花が咲き誇り、鴬が鳴いていました。
 依田早苗さんは今から62年前の1951年10月28日、宗教改革記念主日に神学校教会で青山四郎先生から洗礼を受けられました。当時16歳で、ちょうど自由学園に通っておられた頃のことです。23歳で結婚してからは、ご主人のお仕事の関係で日立に移り住みました。55年前のことです(1958年はちょうどこの教会の礼拝堂が建った年でした)。早苗さんはお母さまの堤茂代姉と共にいとすぎのメンバーとして信仰のご生涯を全うされたことになります。日立はこの場所から160kmほど離れています(新宿から諏訪までが170kmほど)。普段は教団の日立教会の礼拝に「客員」として出席しながら、55年間、この武蔵野教会に通い続けられたことになります。車で外環道や常磐道という高速を通って二時間半ほどかかりましたが、その距離を走りながら改めて、早苗さんにとってこの武蔵野教会とつながり続けたことの意味の大きさを感じさせられました。
 2011年の3月11日に起こった東日本大震災の時には日立も大きな被害を受けました。高台にある御自宅もガラスが割れ、庭の大谷石も崩れ、水道や電気が止まって、大きな苦難の時となりました。その中で依田さんはお一人で、持ち前のエネルギーを発揮してすべてを再建されたのです。そしてその年の秋の頃です。腰が痛いということで病院に行ったところ肺に進行ガンが見つかりました。「なぜ自分が!?」という驚きと苦しい思いを持ちながらも、東京日立病院に通院や入院を続け、一年半に渡ってイレッサなどの抗がん剤、放射線の治療を受けることになりました。そのような中で早苗さんは最後までご自身の凛とした生き方を崩すことなく、前を向いて、上を向いて、キリストに従いながら、78年になろうとする信仰者としてのご生涯を全うされたのです。このことを通して私が改めて強く思わされたのは、キリスト者はどのような時にも揺るぐことのない「主の祝福」の中に生かされているということでした。
 主は渡される夜、パンを取り、感謝と祝福を捧げて、それを割いて弟子たちに分かち合われました。「これはあなたがたに与えるわたしのからだである」。そしてブドウ酒をも同じようにして弟子達と分かち合われました。「これは、あなたがたの罪の赦しのため流されるわたしの血における新しい契約である」。主イエス・キリストのパンとブドウ酒の祝福をいただいて私たちは生きるのです。たとえどのような場におかれても、その祝福は揺らぐことがありません。それは主キリストが、私たち一人ひとりのために、あの十字架の上で、神と人と闘って勝ち取ってくださった祝福なのですから。
 本日の使徒書の日課であるエフェソ書にはパウロの祈りの言葉が記されていました。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)。教会は、すべてにおいてすべてを、その愛の祝福で満たしておられる方の、愛に満ち溢れている場なのです。この礼拝から昇天の主の祝福の力をいただいて、神と隣人に仕えるために、それぞれの日々の持ち場に帰ってまいりましょう。私たちキリスト者は、天の祝福に生きる者であり、アブラハムの子孫として、「祝福の基/源」としてこの天の祝福を人々と分かち合う使命に召されているのですから。
お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

<おわりの祝福>
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
(2013年5月12日主の昇天主日礼拝説教)