説教 「わたしの杯が飲めるか」  大柴譲治牧師

マルコによる福音書 10:32ー45

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

長渕剛『乾杯』

先日(3月7日)、ルーテル学院大学・神学校の卒業式に参加しました。夜、中近東文化センターの地下三階にあるホールで謝恩会が開かれ出席いたしました。三鷹教会員の中村克孝先生が学生たちのリクエストにより長渕剛の『乾杯』を歌ってくださいました。中村先生はその曲を私が神学生の頃から歌っておられましたから、もう20年以上も卒業式で歌い続けてこられたことになります。3月は卒業式や新しい旅立ちの時でもあり、それにふさわしくもまた味わい深い歌詞ですので少しだけご紹介しましょう。

かたい絆に 思いをよせて 語り尽くせぬ 青春の日々
時には傷つき 時には喜び 肩をたたきあった あの日
あれから どれくらいたったのだろう
沈む夕陽を いくつ数えたろう
故郷の友は 今でも君の 心の中にいますか

乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな 舞台に立ち
遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!

(『乾杯』 作詞・作曲:長渕剛)

本日は「わたしの杯が飲めるか」というイエスさまの言葉に焦点を当ててみ言葉に思いを馳せたいと思います。今はレント(四旬節)、主の十字架の歩みを覚える期間です。先取りして言えば、イエスさまは私たちと祝福の杯を交わすために十字架へと歩んでくださったということに思いを馳せてゆきたいのです。主は私たちの人生を祝福するため、「乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな 舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!」という切なる祈りをもって十字架の道を歩まれたということを覚えたいのです。

「誰が一番偉いか」

時は主イエスの三度目の、そして最後の受難予告の直後。このエピソードはいかに弟子たちが主イエスについて無理解であったかということをよく示すエピソードでもあります。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とイエスは語りますが、ヤコブとヨハネに限らず、イエスの周囲にいた弟子たちのすべては自らの期待するメシア像をイエスに投影して疑わないでいます。彼らの期待するメシア像とは、あの父祖ダビデのように、力をもって彼らをローマ帝国の縄目から解放し、統一イスラエル王国を再建してくれるようなスーパースターです。イスカリオテのユダの視点から描かれた映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』というロックオペラを思い起こします。彼らはそのような力あるスーパースターであるメシアを求めた。十字架の上に無力な恥をさらすようなメシアではないのです。そしてヤコブとヨハネとはそのスーパースターの力に充ちた一番弟子・二番弟子たる地位を求めたのです。

「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」「何をしてほしいのか」「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。実はこの野望はヤコブとヨハネ二人だけのものではありませんでした。この出来事の直前の、マルコ9:33ー37にも12弟子が誰が一番偉いかをイエスに隠れて議論していたと記されています。誰が一番偉いか。実は私たちは私たちの日常生活の中で大問題だということを知っています。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」。これは福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の言葉ですが、天を見上げることの乏しい私たち人間は、誰が誰の上で誰が誰の下であるということに必死になっているようなところがあります。しかし、本当の私たちの生命の輝きはそのようなところにはないことを主は明らかにしているのです。そのようなことはあなたがたの命のためには大きな問題ではない。問題は、私の杯を、キリストの杯を飲めるかということなのだ。換言すれば、私たちの命(人生)は主から与えられる杯にかかっているということです。そこに私たちの本当の生命が輝く場所が備えられていると聖書は告げているのです。

共に主の杯を飲んだヤコブとヨハネ

右と左に座らせてくださいと願い出たヤコブとヨハネに(彼らはマルコ3:17では「ボアネルゲス(雷の子ら)」と呼ばれています)、イエスは問いかけます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。彼らは喜んで「できます」と答えました。おそらく彼らは主が差し出してくださる杯こそめでたい祝福の杯と思い、栄光の杯と思ったのでしょう。しかしそれは全く違っていました。分かっていなかったのです。それは栄光の杯ではなく、主が最後まで飲み干された苦い苦しみの杯であり、十字架の杯だった。

その杯は、主イエスご自身も父なる神に「取り除いてください」と祈らずにはおれないような苦い苦しみの杯でした。主は逮捕される直前、ゲッセマネの園でもだえ苦しむ中でこう祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。そして主はその杯を最後まで飲み干してゆかれたのです。

「できます」と答えた雷の子らにイエスは言います。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と。

主が言われた通り、また二人が答えた通り、ヨハネとヤコブとは、互いにずいぶん異なった形ではありますが、主イエスと同じ杯を飲み同じ洗礼を受けることになってゆきます。ヨハネは長生きしてエフェソに行った。W・バークレーによれば、ヨハネはほとんど百年も生きて、長寿と栄誉のうちに安らかに死んだことになっています。「晩年にはヨハネは主の愛の誡以外はすべて忘れてしまったのである」(『イエスの弟子たち』、p52-53、新教新書)。それに対して、ヤコブの一生は短かった。イエスが預言した通り、ヤコブはやがて剣で斬り殺されてゆくことになることが使徒言行録12:2には記されています。そうした違いはあっても、双方共にキリストの杯を飮んだのです。バークレーはこう記しています。「ローマの貨幣に雄牛が祭壇と鋤に向かっている姿を、次の言葉と共に刻んだのがある、『両方のために備えなさい』と。雄牛は祭壇の劇的な犠牲のために備えられなければならない、あるいはまた鋤をつかう長い繰り返しの一生のために備えなければならない。英雄的な一瞬のために死ぬキリスト者、キリストへの忠誠の長い生涯を歩むキリスト者、双方ともキリストの杯を飮むのである。一方が他方に勝るのではなく、彼らの双方が主の杯を飮んだのである。キリスト者もまたその双方のために備えなければならない」と(同p161)。

苦しみの杯

主イエスが私たちに差し出してくださったキリストの杯とはどのような杯なのでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。ここで第一に言わなければならないことは、それが「苦しみの杯」であったということです。それは十字架の苦難の杯でした。生きるということには大変に悲しく辛い側面があります。ある方は病気との苦しい戦いの中で苦い杯を飲んでおられるかもしれませんし、ある方は人間関係の中で苦しみの杯をなめておられるかもしれません。また、ある人は仕事の上や大きな壁にぶつかって苦難の中に置かれているかもしれません。愛する者を失った悲しみに圧倒されている方もおられることでしょう。20世紀を振り返ってみるときに、それは戦争の世紀であったと言われます。20世紀には6千万人もの尊い命が戦争によって奪われました。様々な苦難の中で無念の思いでこの世を去ってゆかなければならなかった人々の多さに気が遠くなる思いがいたします。主イエスは、そのような人間の苦難と死を背負って十字架にかかられたのです。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!?」この十字架上での叫びは私たちの心を刺し貫きます。

しかし、主はご自身のためにその杯を飲んだのではありませんでした。最後の晩餐で主はパンを割いて弟子たちに与えた後、今度は杯をとり、同じようにして言われました。「取って飲みなさい。これは、罪のゆるしのため、あなたがたと多くの人々のために流すわたしの血における新しい契約である」と。その苦しみの杯は私たちすべての人間のためだったのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。私たちを虚無と罪と死の縄目から解放するためにその十字架の死という苦い杯を飲み干されました。私のためにこの杯をキリストは飲み給うた。私を救い、私を生かすために。神の怒りの杯を、ご自身の血潮によって神の祝福の杯へと変えてくださるために。

杯をどう飲むか

私たちは自分の人生の主人は私たち自身であると思っています。しかしそうではない。その証拠に私たちは私たちに与えられる自分の杯を選ぶことはできないのです。そしてそれを飲まずにいることもできない。私たちにできることは私たちに与えられる杯を「どう飲むか」なのです。嫌々逃げ腰で飲むか、「然り」と言って前向きに飲むか。これはいやだ、あっちがいいとは言えない。その意味では「杯」とは私たち自身の人生を、私たち自身の存在そのものを指していると考えられましょう。それをどのように飲むかがここで問われている。私たちは自分の杯を飲み、自分の重荷を担う以外にはない。ある人は若くして難病のために短い生涯を終えてゆきます。ある子供たちは戦火とひもじさの中で空しく死んでゆきます。ある人は物質的には有り余るものに取り囲まれながら、だれとも心を通わせることなく、孤独で孤立した人生を送っています。しかし私たちは、「悪法も法なり」と言って毒杯を仰いだソクラテスのように、与えられた杯を「然り」と言って飲み干す以外にはないのです。「裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」と言って苦難を真正面から受け止めたヨブのようにそれを飲み干す以外にはない。

キリストの与えてくださる祝福の杯

「キリストの杯」に関して第二に言うべきこと、それは、「その杯は、苦しみの杯であると同時に、祝福の杯でもあった」ということです。十字架の苦難を通して復活の勝利に至る道が備えられていたのです。キリストの与えてくださる杯を飲むことを通して、聖餐式で私たちが体験するように、私たちは時間と空間とを越えた神の永遠の命に与ることができる。「わたしの杯が飲めるか」という主イエスの言葉はキリストの祝宴への招きなのです。復活の主イエスと出会い、聖霊降臨を受けた弟子たちは、死をも恐れず、このキリストの福音を全世界に宣べ伝えてゆきました。その途上でヤコブは若くして斬り殺され、ヨハネは100歳まで生きたとしても、等しくその杯を飲んだのです。

第三は、それは「キリストご自身が与えてくださる祝福の杯である」ということです。「乾杯! 今君は人生の大きな、大きな舞台に立ち、遥か長い道のりを歩き始めた、君に幸せあれ!」という長渕剛の曲を最初にご紹介しましたが、私が私としてこの人生を生きてゆく上で、たとえどのようなことが私を襲おうとも、嵐の中で難破したとしても、無念さの途上で病いや突然の事故で命を終えることになったとしても、キリストはその杯を私たちに向かって高く上げてくださるのです。私たちはそのキリストの祝福の杯、祝福の乾杯を受けて生きてゆくことができる。キリストの命をいただいて生きることができる。もはや生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものであるのです。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ(ローマ14:8)。

あたりまえの幸せに乾杯!

悪性の骨肉腫のために闘病生活の中で右脚を失いつつ、肺転移によって32歳の若さで亡くなった井村和清医師の『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ~若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』(祥伝社、1980)という本を以前にも一度ご紹介したことがあります。その中に「あたりまえ」と題される詩がありますのでご紹介させてください。亡くなる直前に子供たちに宛てて書かれた詩です。

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

(S54.1.1.新年の贈り物)

キリストが差し出してくださる杯を飲むか飲まないか。ここでは自分が主体ではなく、キリストご自身が主体です。神が与えてくださる杯。それは、キリストご自身が十字架の上で最後の一滴まで飲み干された苦難の杯であり、復活の主が与えてくださる祝福の杯です。「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたは私に食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩篇23:5)、そのような杯です。苦難の中に隠されたあたりまえの幸せ。そのような人間のあたりまえの幸せをご自身の杯を高く持ち上げることで祝福してくださる十字架の主イエスの姿を覚えつつ、新しい一週間を過ごして参りましょう。そう思う時私には、十字架にかかられた主の姿が、私たちに祝福あれと杯を高く持ち上げている主の姿にも見えてくるのです。主の杯に乾杯!

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年3月16日 四旬節第二主日 礼拝説教)