説教 「無一文へのすすめ」 賀来 周一

マルコによる福音書10:17ー22

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

究極の問いかけ

十字架の死への旅立ちをされる主の足下にひとりの男が駆け寄りました。

「善き主よ、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」

「それはあなたがよく知っているように、十の戒めにきまっている。それになぜあなたは私のことを『善い』と言うのかね。善いお方は神のほかだれもいないのだ」

「十の戒めはよく知っています。子供のころから守ってきましたから」

「そうか。あなたには欠けているものが一つあるんだよ。もっているものをすっかり売り払って、貧しい人にあげなさい。それから私についてきなさい。」

イエスとこの男の出会いは、人が究極的になにを求めており、それにたいしてキリストを信じる者には何が与えられるのかということをよく表しています。

彼は申しました「永遠の命のためになにをすればよいか」と。まことにまじめな問いです。彼は究極の救いをイエスに求めているのです。彼は小さい頃からユダヤ人に課せられた十の戒めをこれこそ最高の善い事と信じてせっせと守ってきました。善いとされる行いを積み重ねるなら、きっと究極の救いである永遠の命を手にすることができると思ったのです。イエスはそのモデルでした。それで「善い先生」と呼びかけたのです。

これに対し「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とイエスは言われました。究極の善は神にのみあるのであって、人間にはないということです。創世記を見ると創造のはじめエデンの園には命の木と善悪を知るの木が植えられていたことを思い出されるでしょう。命の付与と善悪の基準は人間の手にはないということです。

ところが人は創世記3章に書かれているように、神になりたいという誘惑に負けて善悪を知るの木の実を食べてしまいます。以来人は善悪を神のように判断できると思うようになってしまいました。その結果、私たちの善悪の判断が混乱をすることとなったのです。なにが善で、なにが悪なのか、私たちはその基準をもつことができなくなってしまったのです。私たちは、この世界のなかで善が善とならず、悪が悪たりえないことを否応なく知らされます。ときとしては善が滅び、悪が栄えるということすら珍しいことではありません。にもかかわらず人は相変わらず、善を通して究極の救いである永遠の命を得ようとするのです。それほどまでに人はエデンの園で手に入れた神の立場に執着しているのでしょう。この男もその立場に立ち続けていることになります。だから「なに(どのような善いこと)をすれば・・・」と言うのです。

永遠の命とは

永遠の命については、「小さな福音書」として知られるヨハネ福音書3章16節が有名です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」とあります。キリストを信じる者はだれでも永遠の命を得ることができるということです。キリストを信じると長生きをするということではありません。永遠の命を与えられるとは、キリストを信じる者の究極の救いの姿です。

その永遠の命とはいったいどのようなことを意味するかをよく表す言葉を思い出します。それは「明日が世界の終わりでも、私は今日林檎の木を植える」というルターが言ったとされる言葉です。永遠の命を与えられた者のみに可能な生きざまがここにあると言うことができるでしょう。明日、すべてが無くなってしまうことが分かっているのに、なお林檎の木を植えることができるとすれば、永遠に生きる命を信じる以外にありません。キリストを信じる者はそれができるというわけです。

男が求めたこともこれと同じ生きざまだったと言えるでしょう。ただそれを男はこれまで以上に善を行うことによって得ようとしました。イエスに向かって「これ以上なにをすればよいのですか」と言った彼のなかによく表れています。彼は善ということにかけては、これ以上することがないほどに渾身を尽くしたのです。

無一文へのすすめ

この男に向かって主は言われました。

「あなたに欠けたものがひとつある」

「欠けている、それならなにを加えれば・・・」と男は瞬間思ったでしょう。

イエスの次の言葉は男の予想を裏切ります。

「持ち物を売り払って、貧しい人に施しなさい。それからわたしに従いなさい」

「ええっ」と度肝を抜かれた男は、

「それはできない相談だ」と思いました。

「善い事と思って、せっかくこれまでせっせと積み上げたものをどうして・・・」

イエスがこの男に求められたのは、なにもかも失ってしまえということに他なりません。彼がこれまでしてきたことといえば、自分のしてきたことに次から次へと増し加えることでした。今やその反対のことをせよと命じられたわけです。すべてを失って見よ、ということです。つまり無一文になれというわけです。自分の側になにもないのです。そこに自分の身をおいて見よ、そこでなにが見えるかということに他なりません。

人はすべてを失うような体験をすると、仕方がないことだ、なるようにしかならない、どうしてこんなことにとあれこれ思い悩みます。ときには人を恨み、己を傷つけ、会社が悪い、学校が悪い、親が悪いと恨み辛みのなかにもだえることもあるでしょう。イエスはすべてを失うことに積極的になれと言っているのです。言い換えるなら、無一文になったとき、それは自分が進んで無一文になることを選び取ったのだ、そう思いなさいということです。そうすると、そこでしか見えないものがあるのです。それをイエスはこの男に見せようとされたのでした。

ルターは詩編の講解書のなかで「人はすべて頼るものがなくなった時、キリスト以外に行くところはなくなる」という意味のことを書いています。さらに「キリストは私のために死んでくださったという信仰がなければ、福音的ではない」とも言います。

男は、このことをこそ知るべきでした。しかし彼は思い至りませんでした。まだ自分のすべてを失うに至っていなかったからです。そのため今や十字架上で彼のために死のうとされるキリストの姿が見えず、自分自身のほうが見えたのでしょう。

もしこの男が一切を失って、無一文であることを選び取ったならキリスト以外に行くところがないことを知るにちがいありません。そうなれば今彼の前に立つお方がだれであり、男のこれからの命は、彼に代わって死んでくださったキリストの命と取り換えっこした命であると知ったはずです。そうなれば彼は、それこそ明日が世界の終わりでも、私は今日林檎の木を植える」ことができる生きざまをイエスに従う者として表したことでしょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年10月22日 聖霊降臨後第19主日礼拝)