「真の神を神とする信仰」  大柴 譲治

マルコによる福音書 12:28-34 ◆最も重要な掟



<はじめに>

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

<アフリカの諺>

先週11月3日(土)にここで行われたバザー&フェスタは、私たちむさしの教会の底力のようなものを感じさせてくれた一日でした。来場された方は千人を越えていたでしょうか。少し肌寒い日でしたが、教会の周囲では賀来先生をはじめ壮年会の方々が黙々と自転車の整理を行ってくださり、あたかも教会が天使たちに見守られているような思いを私たちに感じさせてくれました。

またフェスタでは、のぞみ幼稚園の子供たちによる讃美に始まってコーラスや手品、レベッカ・フラナリーのハープ演奏や教会員によるフラダンス、萩森英明トリオやKAZUKI氏によるアコースティックギターなど、12のグループによる見事なパフォーマンスがありました。その中でも私たちの度肝を抜いたのはアフリカの打楽器のパフォーマンスでした。旧中杉通りに最近できたアフリカの太鼓を作るお店に集まる青年たちが10人ほどでアフリカのリズムを私たちの前に披露してくださったのです。会堂全体が大きな太鼓になったかのように響き渡りました。その大音響に驚いた方も少なくなかったと思いますが、生きていることの躍動感を感じさせてもくれた印象的な一時でした。

その音楽を聴きながら私は以前に聞いたアフリカの諺を思い起こしました。それはこういう言葉です。「もしあなたが速く歩きたいならば、ひとりで歩きなさい。けれども、もしあなたが遠くまで歩きたいならば、誰かと一緒に歩きなさい」(サミュエル・コビア前WCC総幹事)。誰かと一緒に歩くことで歩み自体は確かに遅くなるかもしれないけれども、助け合って遠くまでたどり着くことができる。その諺は、互いに助け合い、支え合いながら共に歩むことの大切さを適確に表現していてなかなか味わい深い言葉であると思います。

人生は「旅」に譬えられます。旅の楽しみは確かに「目的地」に到着することですが、それ以外にもいろいろな楽しみ方があります。旅の途上の一つ一つの自然との出会いや風景を楽しむことや、仲間と共に旅すること、フラッと入った食堂や土産物店を楽しむことなど、旅の「プロセス」を楽しむという楽しみ方もあります。多くの人が出入りする私たちの「教会」は、人生という旅を共に歩む者の群れをも意味しています。先日のバザー&フェスタで私たちが分かち合うことができたのは、そのような旅の味わい深いプロセスの一つであったと思います。子どものおもちゃを扱っていたトムテの笠井さんは「バザーとフェスタのどちらか一方を行う教会はいくつも知っているが、両方同時に行っている教会は他に知らない」とおっしゃっておられました。ぶどう園の祝宴を共に楽しむことができた一日であったことを神さまに感謝したいと思います。

 

<牛丸省吾郎牧師の召天報に接して>

そのバザー&フェスタが行われたのと同じ日でしたが、11月3日に引退牧師の牛丸省吾郎先生が90歳で天の召しを受けられ、11月8日に東京池袋教会でご葬儀が行われました。牛丸先生はお父様の牛丸捴五郎先生(在任は1929-41年)と合わせると、50年近くの長きに渡って親子二代で東京池袋教会の牧師を務められた牧師でした(省吾郎先生の在任期間は1952-87年)。26年前に私が牧師になった際に、それは1986年の2月の終わりに東京教会で開かれた「神学校の夕べ」で、教師会を代表して私に「贈る言葉」を下さったのが牛丸省吾郎先生でした。私はその年に「一番」の成績で神学校を卒業しました。その年は実は私一人しか卒業生がいなかったからです。当時西教区長であった小泉潤先生などから私は「金の卵」と呼ばれていました。能力があるとか期待されているという意味ではありません。神学校を維持するのに「一億円」ものお金がかかっていて、その年のたった一人の牧師を養成するためにそのお金がかかっているという意味で「金の卵」と呼ばれていたのです。もともと私には神学校の同級生として立山忠浩先生や野村陽一先生、山田浩己先生、永吉秀人先生、太田一彦先生などがいましたし、立野泰博先生、富島裕史先生など神学校に少し先に入った一年後輩もいました。しかし諸般の事情で、結局気がついたら1986年の卒業生は私一人になっていたのです。そういうわけで、その年のすべての行事は私一人のためだけに行われてゆくという、ある意味では大変に贅沢なかたちで「神学校の夕べ」を迎えたのでした(ちなみに1984年と1988年も神学校の卒業生は一人だけでしたが)。学生は一人しかいないので授業は休むわけには行きません。ある授業などは三対一の授業もありました。先生が三人おられたのです。贅沢な授業ですね。私自身が神学校で後継者養成に関わるようになって毎年按手式の時期に強く思うことは、一人の牧師が生み出されてゆくことの背後には実に多くの方々の祈りと支援とがあるということです。そのような中で連綿と牧師たちが毎年生み出されてきたことに深い感慨を抱きます。

牛丸省吾郎先生が神学校の夕べで語って下さったのは、モーセについての言葉でした。モーセは出エジプトの時に人々を引き連れて真っ二つに避けた紅海を渡ったことで有名な揺るぐことのない民のリーダーです。シナイ山では神から十戒を与えられています。

牛丸省吾朗先生は、モーセは目の前に拡がる海を前にし、後ろからはエジプト軍が追いかけてくるし、自分の背後にはエジプトを脱出しようとする何万人もの(出エジプト12章や38章によると「壮年男子だけで60万人」!)イスラエルの人々がいる。モーセの後ろ姿は、イスラエルの民に対しては確かに迷いのない強力なリーダーシップを取る指導者の姿を示していたとしても、ひとたびその前に回って見るならば、モーセの顏はその責任の重さに歪み、どちらを向いても八方塞がりの行き詰まった状況の中で涙を流し、自分の無力さを感じながらオロオロと震えていたに違いない。その孤独と重責に耐えつつ、モーセは神にすべてを託していったのだというお話しを牛丸先生は先輩からの贈る言葉としてしてくださったのです。私には忘れることができない言葉でした。それは困難な時代を牧師として生き抜いた牛丸先生ご自身の信仰の告白でもあったと思います。

インド人カトリック司祭のアントニー・デ・メロ神父の言葉を思い起こします。「モーセが紅海に杖を投げ入れても、民の期待した不思議は起きなかったという。潮が引き、海面が二つに割れ、ユダヤ人の前に乾いた通路ができたのは、モーセがその身を海に投じた、まさにそのゆえであったと言い伝えられている」(『蛙の祈り』)。神をひたすら信頼して自分の身を投じていったモーセの姿は私たちの心に忘れ得ぬ印象を与えます。

 

<最も大切な掟>

本日の福音書の日課には二つの最も大切な掟が出てきます。それは、モーセの十戒は二枚の石の板に書かれていたのですが、それを二つにまとめたものであると考えられています。「第一の掟」は「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というものであり、「第二の掟」は「隣人を自分のように愛しなさい」というものです。「この二つにまさる掟はほかにない」と主イエスは言われます。

モーセの十戒の第一戒は「わたし以外の何ものをも神としてはならない」という戒めでした。真の神を神とする信仰。真の神以外を神としない信仰、絶対化しない信仰。これが求められているのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟はこの第一戒と重なります。

しかし、このような信仰にどうすれば私たちは与ることができるのでしょうか。自分の努力や熱心さによってはこのような信仰に到達することができないことを私たちはよくよく知っています。自分の力によってはそれは獲得できない。それは私たちのためにあの十字架に架かってくださったお方によって可能となる事柄なのです。「新しいモーセ」であるイエス・キリストがあの十字架の上に身を投げ打ってくださったがゆえに、私たちの前に海が真っ二つに裂け、暗黒の海の直中に一本の救いに至る道が現れたのです。それが突破口でした。キリストの十字架の出来事は神の約束の地に至るための新しい出エジプトの出来事でした。このキリストが開いてくださったひとすじの道を私たちは共に歩むのです。昼は雲の柱、夜は火の柱を持って神はその民を導いてくださる。荒野の四十年の旅を日毎のマナをもって養ってくださるのです。

私たちが人生の中で行き詰まる時にも、涙する時や恐れに身がすくむときにも、キリストを見上げる時に、ただ真の神を神とする「信仰(ピスティス)」、これが上から無代価で、無条件で、神の恵みとして贈り与えられてゆきます。この神の「まこと(ピスティス)」がそれを受け取るすべての人を義としてゆくのです。

「もしあなたが速く歩きたいならば、ひとりで歩きなさい。けれども、もしあなたが遠くまで歩きたいならば、誰かと一緒に歩きなさい」というアフリカの諺を思い起こしながら、ご一緒に旅を続けてまいりましょう。「新しいモーセ」であるキリストがこの群れの先頭を歩んでくださいます。このキリストに従って、ご一緒にキリストと共なる新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。

アーメン。

 

<おわりの祝福>

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

アーメン。

 

(2012年11月11日 聖霊降臨後第24主日 礼拝説教)