説教 武蔵野教会礼拝「今ここが」  伊藤早奈

マルコ4:26-34

祈り)天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。そして今朝、武蔵野教会の礼拝へとあなたによって招かれましたお一人お一人の方と神様あなたからのみ言を通して出会うことが赦されましたことを感謝致します。蒸し暑い日が続いております。自分の思う通りに動けなかったりする日も少なくありません。どうかお一人お一人の心と体の健康を神様あなたによって支えられていることを私たちが思い起こし一瞬一瞬を歩んでいくことができますように。これから語られます神様あなたからのみ言、この語る者を通してあなたがここにおられるお一人お一人へとお語り下さい。この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。アーメン。

「また、イエスは言われた。神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、つぎに穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと,早速,鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」マルコ4:26-29 と「神の国」のたとえをイエス様は語り始められます。

「神の国」とはどんなところなのでしょうか?どこか遠いところにある私たちが「ここに行けば安心で幸せが用意されているはず。」と思うような完成された場所なのでしょうか?「神の国」とは神様のみ心が働くところです。今,私たちが生きているこの場所も神様のみ心が働くところ。「神の国」なのではないでしょうか。

神のみ心が働いているといくら言われたとしても、目には見えないし触れる事ができないからわからない。と言われる方も少なくないと思いますが,本当に私たちは神様から送られているみ心が見えないのでしょうか?今朝,与えられました聖書のみ言よりご一緒に聴いて参りたいと思います。

私たちが生きてるところにはたくさんの目に見えて手に触れるものがあると同じくらい目に見えない手でも触れる事ができないものもたくさんあります。

昨年の3月11日に起きた東日本大震災を私たちはいろんなかたちで経験しました。今でも心に傷をおわれ言葉にできることがあっても 言葉にできない現実や深い思いをたくさん持たれている方も多いでしょう。それまで漠然と感じていた目には見えなくて触れることもできない存在があるという確かさを今いろいろな意味で感じておられる方も少なくないと思います。目には見えず予想もできない自然の力や放射能。そして死ぬか生きるかの境目など。しかし確かに「目に見えない」「触れることのできない」確かなものがあります。それは人の思いや心、優しさや悲しみ苦しみ、人と人との絆、そして命。そして今一人一人と共にある神様からの信頼や愛そして一人一人を待つという神様からのみ心です。

一人一人の思いはイエス様のお名前を通して「祈り」へと変えられます。イエス様と言葉にしないとしても目に見えない絆は人と人との繋がりになります。そして放射能は目に見えない得体の知れない恐怖や後悔から「時」が与えられ、私たちを未来へと繋がる反省と希望へと導びきます。私が今語っていることは、苦しい現実や悲しみのただ中にいる人にはきれいごととしか思えないかもしれません。しかし、目には見えないそして手でも触れる事ができない確かなものは神様のみ心によって「祈り」となり「人と人とのつながり」となり「時」を私たちに与えてくれます。

イエス様が語られる「神の国」の例えは、イエス様が人間のかたちをとってこの世に生きておられた時代に一緒に生きていて、イエス様の話を聞きに集まった会衆にはわかりやすくても、からし種って何だ?と言うような、からし種を見た事のない人にはわかりにくい例えかもしれません。しかし「からし種」がどういうものかわからない人は「神の国」がどういうものかわからないというものではありません。例えば朝顔の種や稲というように「神の国」は私たちが生きている今、ここに、とても身近にあると言うことなのです。

そしてイエス様が話される「神の国」の例えには人も出てくれば土も種も出て来ます。そして収穫の時に鎌を入れる人がいます。

やっぱり私たち人間が種に名前をつけて私たちが種にふさわしい畑を選んで種をそこに蒔いて私たちが神様に与えられた「時」を判断して鎌をいれなくてはいけないのだろうか。

聖書を読んでいるとき、私は「また自分で努力をしなければいけないのかな」と初めは正直思いました。しかし、努力できないときもあります。もし、自分が息切れして神様を忘れてしまうとしたら神様に見捨てられてしまうのでしょうか。どんなに身近にあると言われてもこれでは全く遠い存在と変わりません。

違うのです。イエス様がここで例えられている「人」とは神様なのではないでしょうか。そして「種」は私たち一人一人。私たちはもうすでに神様によってふさわしい土へと、畑へと植えられその一人一人の命を神様が信じて愛し一人一人の「時」を待っておられるのではないでしょうか。

「目に見えない」もので確かさを感じながらも、いつも私たち一人一人が時によっては「いらない」と言ってみたり「どうしてあるの」と思ってみたり「もう少し留まってくれ」と願うものがあります。

それは「命」です。

人は勝手なもので自分の「命」をなかなか存在してもいいものとは自分では認めることができません。自分の周りに亡くなった人がいると「どうしてあんないい人が死んで自分は生き残っているんだ」と神様を恨んだりもします。また、ありのままの自分が生きるのは周りの人に迷惑になるんじゃないかと罪悪感にかられる時もあるかもしれません。しかし、神様からのみ心が働くところである神の国は、静かにやさしく確かに、そのままの一人一人を包んで下さいます。

一人一人がそのまま存在することそれが神様のみ心だからです。

自分はなんで生まれてきたんだろう。って私もいつも思っていました。それは病気がわかるずっと前からです。幼い頃から教会へ通っていた私の疑問は「神様はなぜ私をお造りになられたのかしら」ということでした。そしていつしか劇的に悲劇のヒロインになって死ぬことが理想になっていました。私が幼い頃に「1リットルの涙」がドラマになっていればきっと私が今かかっている病気も私の憧れの病気の中の一つになってたのかもしれません。皆さんもご存知のように私は現在脊髄小脳変性症という現代の医学では治す方法がない進行性の神経難病です。この病気の診断は18年ほど前に受けました。その時は有名ではない病名に驚き戸惑うだけでした。まだ杖も必要なく自分の足で歩けていたし、人にたくさん手紙を書いたりして字を書くことも自由にできました。だからどんな自分になるか想像もつきませんでした。現在ではできないことが増えていて歩く事も字を書く事も自由にできなくなり、できなくなったことは数えるとたくさんあります。これからもどんどん増えていくことでしょう。

いつもみ言葉を準備している時も「これが最後に言葉を使って話す説教になるかもしれない」という思いでいっぱいになります。

自分が想像してたり考えていたことを遥かに超えたできごとは突然起こります。そのようなとき私たち人間は悲しみ苦しみ、怒ります。でもどう仕様もないこともどこかではわかってます。しかし神様のみ心は「そのままのあなたが必要です」と一人一人に語りかけられます。神様のみ心が働くところ全てが神の国です。

また、私たちは、見える見えないでは割り切れない世界に生きているのにいかにも見える見えないなどの価値観だけが世界であるかのように感じることが多くなっているのかもしれません。

ある日私は新聞で「命を考える」と言うような記事が載っているのを見ました。しかしその紙面の下に何倍もの大きさで帝国劇場で行われるミュージカルの宣伝が載っているのを見て、随分こっけいだなぁっと思わず心の中で苦笑してしまいました。

苦笑した後、ふと気づきましたこの記事には深さがあるんだと。

そうです、その「命を考える」というような記事には紙面の広さよりも広く目には見えない、でも読む人一人一人が持つ深さで読むことができる大きな大きな「深さ」があったのです。

一人一人の「命」も思いの「深さも」目には見えない、手でも触れることのできない確かなものです。それら一つ一つの存在を愛し、つなげて下さるのも神様のみ心ではないでしょうか。

私たち一人一人は生かされてます。

目には見えない命を与えられている目に見える存在として、生かされている自分をそのまま生きるとき、神の国が私たちの目に見えるかたちとして示されます。

神様から愛されることも信じられることも、そして時を待って頂いているとも、目には見えず手でも触れる事ができない確かなもの、である一人一人への神様からのみ心の働きで目で見えたり手で触れられる形あるものに表現されたり目には見えないけど人のやさしさや思いやりの繋がりへと変えられます。それらには決まった形は必要ありません。それは一人一人の命の色であり音かもしれません言葉かもしれません。でもその一つ一つは確かに「神の国」を伝えます。一人一人の命の存在が「神の国」なのです。

神様はそのままの一人一人と共に歩まれ一人一人に希望を持ち、待っておられます。そのままのあなたは今、神様に必要とされ生かされてます。

「神の国」とは私たちが何かをすることの結果として神様に与えられるものではなくもうすでに私たちに与えられています。目には見えない確かなものが私たちに教えてくれます。「神の国」それは、ここにあります。いつも一人一人の命の傍に共にあり、一人一人を包んでいます。

主は言われます。

「あなたは神の国なのです。一人ではなく全ての人が私と共に歩んでいます。」

(2012年7月15日 聖霊降臨後第7主日 説教)