聖書における「こころ」  賀来 周一

人生の浮き沈みは、こころの持ち方次第と私たちは考えがちである。人生を左右するほどのこころとは何であろうか。まことにこころは不思議である。

今日の脳科学の発展は、脳内物質とこころの現れとしての情動の世界にメスを入れ、その仕組みを相当程度科学的に解明した。その結果、こころの病の解明や治療に大きな成果を得たことはよく知られている。

このような科学的視点は、こころと言われる世界を意識領域と無意識領域別に取り上げ、それぞれの領域を実証的に扱う方向で発展してきた。つまりこころを人間に固有な生来的なものであるとし、科学的実証の客観的対象として受け止めてきた成果と言える。
しかしながら、こころの世界には実証的に処理できない領域がある。とくに無意識の領域にそれを見る。たとえば、ユングが主張する、偶然にも意味があるとする共時性の問題、また河合隼雄が無意識の根底に指摘する魂については、どう実証すればよいか分からないのである。言えることは、科学的には実証不可能であっても、人間の真実であるということある。

旧約によれば、こころを表す言葉にはヘブライ語レーブまたはレーバーブを用いるが、命や息を意味するネフェシュやルーアッハもこころを意味する場合があり、こころを単に人の精神活動と捉えるのでなく、神的な力と結びついていることを示す。新約においてもこころには、通常ギリシア語カルディアとヌースが用いられるが、霊を意味するプネウマがこころを表わすこともある。つまり人間のこころの世界は、神の働きを受け取る器ともなり、神から与えられたものでもあるということなのである。命が神の息によるのと同じようにこころも神のものということになる。

このような理解は、現代における成熟したスピリチュアリティー(宗教性)の必要性を主張するWHOの問題提起に現れている。1984年、WHOは健康とは何かという定義に関して「人の健康とは、身体的、心理的、社会的要因が相関関係を保ちつつ、全体として活性化しているならば健康である。何らかの疾病、生活上の不都合がないということではない」と主張した。つまり病気であっても健康であり得るというのである。

ところが、1999年になりWHOは人間的な三要因にスピリチュアルな要因を加えた。とくに心理的要因が担保する「気の持ちよう」、「精神の安定」にスピリチュアル(成熟した宗教性)を加えることで、人は病みつつも活き活きと健康であり得るとした。科学の対象となり得る心理的な意味でのこころだけでは画竜点睛を欠くということであろうか。
ここには、人が健やかに生きるには、単なるこころの持ち方以上に究極的なもの、すなわちスピリチュアルなものがなければならないことが意味されている。このことを考えれば、聖書が人間のこころの世界に神的賜物としてのネフェシュ、またプネウマを関連づけたことの意味合いの重要性を再認識すべきであろう。

*スピリチュアルという語の定訳はないが、私は「成熟した宗教性」と訳している。

(むさしの教会だより 2012年7月号)