説教「食卓の給仕をしてくださる復活の主」 大柴譲治

説教「食卓の給仕をしてくださる復活の主」 大柴譲治

 ヨハネによる福音書 21:1-14

 

<「復活の主が準備してくださった朝食」>

 「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と復活の主は弟子たちを招かれました。よみがえられたキリストご自身が食事を準備してくださった。今朝私たちがこの礼拝に集められていることも、主が私たちを「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださっているからだと思います。この礼拝は、主自らが炭火を起こして魚を焼いてくださった「霊的な朝食」なのです。この炭火の煙と焼き魚の臭いの中に私は復活の主のクオリア/リアリティーを強く感じます。聖書のこの部分を読むたびに私はそこから炭火の煙と焼き魚の香りがしてくるように感じます。このような具体性の中に弟子たちは復活の主の現臨を感じ取ったのです。

 本日の使徒書の日課にはこうありました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。——この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1ヨハネ1:1-2)。復活の主と出会うことができた第一世代の弟子たちがその耳で「聞いたもの」、その「目で見たもの、よく見たもの」、手で「触れたもの」を伝えてくれたのです。以降二千年に渡ってキリスト教会はこの復活の主の証言を手渡しで引き継いできました。時間と空間、言語や歴史を超えて、復活の主の福音を全世界に宣べ伝えてきたのです。

 このようなかたちでの生き生きとした「命の言」についての証言があったからこそ、初代教会はどのような困難や迫害にも負けずにその復活の福音を宣べ伝えてゆくことができただろうと思います。蜘蛛の子を散らすように十字架の下から逃げ去った主イエスの弟子たち、あれだけ「弱虫」だった弟子たちが、復活のキリストと出会うことを通して殉教の死をも恐れない「復活の証人」に変えられていったのです。先週はマルコ16章9節からを読みましたが、歴史家が証明できるのはマルコ16章8節までに書かれていた主の「空っぽの墓」まででしょう。しかし8節と9節の間には無限の深淵がある。遠藤周作の言葉を借りれば、確かにキリストは「弟子たちの心の中に甦られた」のです。復活のキリストがその啓示を通して、あれほど弱虫だった弟子たちを死をも恐れない復活の証人へと造り変え、押し出していったのです。復活は「事実」としては証明できないとしても確かに「真実」であります。

 それはヨハネ21章が記しているように、復活の主ご自身が弟子たちのために焼き魚を燒いて朝食の準備をしてくださっているほどリアルなものでした。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」、わたしたち自身の五感で感じることができるようなもの、臭いを嗅いでムシャムシャと食べて味わうことができるほど具体的なものだったのです。疑いのトマスは主の十字架の釘跡を示されて変えられました。本日の日課には、七人の弟子たちが一晩中漁をしても「その夜は何も取れなかった」とありますが(ヨハネ21:3)、「船の右側に網を打ちなさい」と岸から語られる主の言葉に従ったところ「153匹もの大きな魚」が獲れたとあります。「153」というのは当時ガリラヤ湖にいたとされる魚の種類を指しているようです。それは全世界の民族を象徴していましょう。福音が全世界に宣べ伝えられてゆき、多くの国民をその弟子とするということがそこでは預言されているのです。

 

<まぶしい言葉>

 私などはこのような揺らぎのない言葉がとてもまぶしい気がいたします。それは私が自らの中に揺れ動くものを感じているからです。皆さんはいかがでしょうか。私たちはキリストの福音を聞いて信じ、洗礼を受けましたが、復活の主を直接自分の目で見たりこの手で触れたりしたのではありませんから、どこか自分の中には曖昧で不確かで、迷ったり壁にぶつかったり、本当に自分には信仰があるのだろうかと疑ったりする気持ちがあると思います。だからこそ遠藤周作の「信仰とは99%の疑いと1%の希望である」という言葉に深く頷かされるし、疑いのトマスが主によって信仰の確信を与えられていったことが羨ましく思えるのです。

 私たちは自分の中には確かさはないということをきちんと見つめてゆかなければなりません。「信仰」とは「信念」や「自分自身の思い込み」とは違います。「こだわり」とも違うのです。自身が打ち砕かれ自己の中には何もないということに気づいた時に、同時に、それにもかかわらず神の一方的な憐れみによって救いが向こう側から与えられていると気づかされるのです。それは「もはや生くるのは我に非ず。キリスト我がうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)という状態です。打ち砕かれた自分の主体は自分自身ではなく復活のキリストです。キリスト教の迫害者だったパウロはダマスコ途上で復活のキリストと出会うことによってそのような「信仰」に導かれました。思わぬ時に思わぬかたちで、救いは常に私たちの「外」から来る。「向こう側」から、「神」から来るのです。

 本日の使徒書の日課にはこうありました。「この命は(向こう側から)現れました。御父と共にあったが、わたしたちに(向こう側から)現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1ヨハネ1:2。括弧内の言葉は大柴の補足です)。ここで「現れた」と二度用いられている語は「啓示する、(神が隠れていたものを)明らかにする」という言葉です。意味上の主語は父なる神です。神が私たちに「命の言」である御子を啓示されたのです。復活の主はいつもご自身の側から弟子たちに近づいてきてご自身を示してくださいます。弟子たちが復活の主に近づいたのではない。向こう側から私たちに近づいてくださる復活の主を、炭火と焼き魚の臭いをかぐほど具体的に生き生きと私たちが感じ取ることが大切なのです。

 せっかく主が私たちに近づいてくださっているのに、私たちは(何かの理由で)それに気づかずにいるのかもしれません。自分の中の何かがそれに気づくことを妨げているのでしょう。先週の福音書の日課には、復活の主が「(信じようとしない弟子たちの)その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエス・キリストを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とありました(マルコ16:14)。復活の主は私たちの中にある「不信仰とかたくなな心」すなわち「罪」を打ち砕き、私たちを信じない者から信じる者へと造り変えてくださるのです。

 

<「cogitoではなくcredoで」(バルト)>

 小川修先生の『パウロ書簡講義録ローマ書講義I』(リトン、2011)に記されていることですが(p143-45)、神学者のカール・バルトは、デカルトの「cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」という場合の「我」と私たちが使徒信条などで「credo(我信ず)」という場合の「我」は二つの全く異なる「我」だと言いました。cogitoの「我」はどこまで自分中心で、すべてを自分の経験利用の対象としてしか見てゆかない独白的な「我」です。「自我」と呼んでもよい。「我-それ」の「我」と言ってもよい。近代文明はそのような近代的な「自我」によって構築されてきました。そのようなモノローグ的な肥大化した「我」の行き詰まりは見えています。それに対しcredoの「我」は、神の御前にひれ伏す「我」であり、神との関係の中で徹底的に打ち砕かれ無とされてゆく「我-汝」の「我」なのです。「もはや生くるのは我に非ず」の「我」ですね。私たちは繰り返し「credo(我信ず)」の「我」に立ち返り、そこから始めてゆかねばなりません。

 復活の主は「さあ、来て、朝の食事を食べなさい」と私たちを今招いておられます。準備された炭火と焼き魚のにおいは、打ち砕かれた心でそれをいただく弟子たちの心に忘れられない余韻を残したことでしょう。それは彼らに十字架の前日の「最後の晩餐」をも想起させたはずです。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、私たちのための「命のパン、命の水」として自らを差し出し、捧げてくださったお方。そのパンとブドウ酒をこの歯でかみしめ、この舌で味わい、のどで飲み込む。「臭いをかぎ、かみしめ、味わい、飲み込む」という具体的な五感を通して、復活の主のリアリティーが弟子たちの心に力を与え、それを造り変え、押し出してゆくのです。

 大切なことは、どこか遠いところにあるのではなく、私たちのごく身近なところ、すぐそばにある。それに気づくことです。炭火と焼き魚の匂いは私たちにそのような復活の主の現臨を伝えているように思います。主が私たちのために食卓で仕えてくださること、主が準備された炭火の煙と焼き魚の香りを味わいそれを深く噛みしめながら、主の交わりの中に新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

 それは本日の第一日課が告げる通りです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)。このお方と出会い、このお方を信じ、このお方に服従していった多くのキリストの証人の中に、今ここに生かされている私たちもまた加えられているのです。多くの主の復活の証人の中には、苦しい息の中にあっても「主、我を愛す」と告白しながら天に召されてゆかれた菊池文夫兄もおられますし、「地上を離れ、私の愛する神様に会いに行きます。アーメン」という言葉を残してイースター前日の4月7日に天に帰って行かれた土門多実子姉もおられるのです。復活の主が私たちをご自身に結び合わせておられることを覚えながら、お一人おひとりがこのお方、復活の主のリアリティーを感じることによって豊かな喜びに満ちた毎日を過ごすことができますようお祈りいたします。アーメン。

 

(2012年4月22日 復活後第二主日礼拝説教)