説教「友を思うとりなしの信仰」 大柴 譲治牧師

マルコ 2: 1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

病人の苦しみ

主イエスのもとには大勢の病人が連れてこられました。病いを癒されたいと願う人が跡を断たなかったのです。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」。

ここに重度の中風に苦しむ人がいました。「中風」とは、主として脳や脊髄などの疾患のために腕や足などがマヒして半身不随となってしまう病気を指しています。脳梗塞などで自分の思う通りに身体が動かなくなること、喋ることができなくなることが、本人にとっても家族にとっても、どれほど辛いことであるかを私たちは知っています。彼自身目の前が真っ暗になるような絶望的な気持ちを味わい続けてきたことでしょう。

病人は様々な次元で苦しみを体験します。肉体的な痛みはもちろんのこと、自分のそれまで頑張ってきた大切な仕事ができなくなるという喪失感や自信を失うという社会的な痛みもありましょう。また、医療費や生活費をどうすればよいのかという経済的な不安や痛みもをありましょう。その苦しみを誰にも分かってもらえないという泣きたいような孤独や精神的な痛みもあるかもしれません。そして死に対する不安や恐怖、あるいはこれは神の罰かもしれないという霊的な痛みを持つ場合もありましょう。病気は私たちに様々な次元で終わることのない痛みをもたらすのです。中風の男の望みもまたそのような痛みのかたまりから開放されることでした。

『友達』

家族でしょうか、友人でしょうか、彼には自分のために必死になってくれる者たちが四人いました。五人は強い絆で結ばれていたのです。イエスの評判を聞いた四人は中風の人を何とか癒してもらおうとイエスの前に連れ出そうとしました。しかし余りに人が多かったためイエスに近づくことができず、一計を案じます。「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。なかなか大胆な行為です。彼らの必死さと熱い思いとがダイレクトに伝わってきます。人の家の屋根を壊すのですからよほどの覚悟がないとできません。私はこの場面を読むたびに、本当によい友を彼は持っているなあと感心すると同時に少しうらやましい気持ちにもなります。

ビートたけしの『友達』という詩を思い起こします。

友 達

困った時、助けてくれたり
自分の事のように心配して
相談に乗ってくれる
そんな友人が欲しい
馬鹿野郎、
友達が欲しかったら
困った時助けてやり
相談に乗り
心配してやる事だ
そして相手に何も期待しない事
それが友人を作る秘訣だ

(ビートたけし、詩集『僕は馬鹿になった』、祥伝社)

確かにその通りだと思います。中風の友を寝床ごと屋根から吊り降ろす場面と重ねるなら、それは彼自身が同じように友が困った時に助けてやり、相談に乗り、親身になって心配したからでありましょう。そのような深い関わりを他人に対してしたからこそ、その五人は強い友情の絆で結ばれていたと思います。

四人の「信仰」を見て

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とマルコは記しています。「信仰を見て」とありますが、イエスが見たのは彼ら四人の「屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろす」という具体的な行為でした。その行為の背後には二つの深い思いがありましょう。大切なこの中風の友人を何とかして救いたいという友に対する必死の思いと、イエスの前にさえ連れ出せば必ず何とかしてくれるだろうというイエスに対する熱い思いです。その二つの思いが彼らをして屋根をはがしてまでイエスの前に病人をつり降ろすという大胆な行為に走らせるのです。

実際これは大変な作業でした。屋根に穴をあけるだけでも大変ですが、屋根の上に病人の床を運び上げて、それを床ごと吊り降ろすのです。足場を確保するだけでも大変です。平行箇所を比べてみると興味深い相違があることに気づかされます。マタイはただ「人々が中風の人を床に乗せたまま、イエスのところに連れてきた」としか記しておらず、屋根はがしは言及されていません(9:2)。ルカでは「男たちが」「瓦をはがし」という表現となっています(ルカ5:19)。マルコだけは「四人の男が」とその人数まで記しています。マルコにとってはこの四人という人数が、床の四隅を支えたということでしょうか、よほど印象に残ったのでしょう。いずれにせよイエスさまご自身、彼らの大胆な行動を見てその熱意と絆の強さとに心動かされたに違いありません。

「絆」としての「信仰」

中風の人は自分のために四人が力を合わせてそこまでしてくれることを心底ありがたく、また申し訳なく感じたことでしょう。聖書の中にはしばしばこのような強い絆が記されていて私たちの心に残ります。たとえば、自分の大事な部下を癒すために「足を運ぶには及びません。ただお言葉をください」とイエスに願い出た百卒長の姿や(マタイ8:5-13)、放蕩息子のたとえにおける父と息子の絆の強さ(ルカ15:11-24)、愛する兄弟ラザロを亡くして嘆くマルタの嘆き(ヨハネ11章)や「子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言って悪霊で苦しむ娘のためにイエスの前にひざまずくカナンの婦人の姿(マタイ15:21-28)など、即座に私たちはいくつもの強い絆を思い起こすことができます。そしてその絆の強さに主は目を留め、それを喜び、祝福してくださるのです。

私たちが自分自身のことを振り返ってみて考えてみると、私たちにもまた大切な絆がいくつもあることに気づかされます。実は聖書の言う「信仰」とは、そのような「絆」のことであり、「つながり」のことなのです。神と私との絆、関係を「信仰」と呼んでいるのです。ここで主イエスが「その人たちの信仰を見て」と記されているのは、「その人たちの絆の強さを見て」という意味なのです。

それはその作業を見てブツブツと心の中でつぶやく律法学者たちとは雲泥の違いです。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と言いましたが、無関心、無関係、無感覚、これこそ「罪」なのです。「友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない」と主イエスはヨハネ15章で語っておられますが、中風の男を屋根をはがしてまでイエスの前に連れ出そうとする熱い思い。友のために命を賭けるほどの愛がそこには感じられます。

十字架~キリストの絆

たった一人でいい。たった一人でも自分のことを本気で思ってくれる人がいてくれれば、私たちは大きな力に満たされてゆくのです。四人とはうらやましいと先に申し上げましたが、しかしよく考えてみると、私たちが気がつかないところで、私たちには四人どころではなく、四方八方から私たちの倒れた無力な姿(「床」というのはそのような姿を意味しましょう)を支えてくれる大勢の友が備えられてきたのだということ、屋根をはいで床をつり降ろしてくれる存在がいたのだということを今日のエピソードは示しているのではないかと思います。

確かに私たちが赤ちゃんの時はそうでした。何もできない私たちを親や家族が守り支えてくれたのです。私たちは一人ではない。自分が立ち上がれない時、歩けない時に、キリストの元に連れ出してくれるそのような友が与えられてきた。そして実は友の姿を通して、キリストご自身が私たちを背負ってきてくださったのです。瓦をはぎ屋根に穴を開け床を吊り降ろしてまで、私たちを大切にし、神さまのみ前に連れ出そうとしてくださっているのです。そのような主との太い絆が私たちには与えられている。主の十字架とはまさにそのような絆としての出来事なのです。

「恩寵」としての出会い

出会いとは恩寵であり奇跡でありますが、なかなか私たちはそのことに気づかないでいる。しかし知らないところで私たちは出会いに恵まれてきました。だからこそ今、この場所に導かれてきているのだと思います。カトリック教会では守護天使の存在を信じていますが、今日のエピソードは私たちにそのような守護天使的な存在がいるのだという神の見えない恵みの事実を示しているのではないか、私にはそう思えてならないのです。

昨日は神崎神学生と淳子さんの結婚式が神学校のチャペルで行われました。私が司式をし、江藤先生が説教を語り、康子姉がオルガンを弾いてくださいました。チャペルは私自身神学生時代に結婚式を挙げていただいた場所でもありますので、昨日の結婚式は私にとっても感銘深いものがありました。23年も前のことです。恥ずかしながら、その時には分からなかったのですが、実に多くの人たちに助けられ支えられていたのだということが次第に分かるようになってきました。歳を重ねなければ見えないことが確かにあるのだと思います。そこから振り返ってみる時、あの時自分自身は身動きとれない状態であったにも関わらず、そのような私を、屋根をはがして穴を開け、床を吊り降ろしてくれた人々がいたからこそ、自分はキリストのみ前に立つことができたのだというようなことを実感として感じるのです。絆の中で神の前に導かれるのです。人と人との出会いというものはそのようなものなのでありましょう。

今日はインターンを終えたばかりの小山神学生も礼拝に集っておられます。インターンということも同じでありましょう。私は自分が身動きとれない状態にある時、出会った一人ひとりが私をキリストのみ前につり降ろしてくださったように思います。だからこそ私自身は牧師になることができたのだと思いますし、それを20年間続けることができたのだと思うのです。

これは皆さんお一人おひとりにとっても同様でありましょう。今私たちがここに生かされているのは、これまで多くの人々の無数の熱い絆があったからですし、背後の祈りに支えられたからであり、友を思うとりなしの信仰があったからなのだと思うのです。そしてそれは、今も生きて働いておられるキリストのみ業であると信じます。キリストご自身が私たちを神の前につり下ろすために十字架にかかってくださった。十字架こそが、「友のために命を捨てる、これより大きな愛はない」というキリストと私たちとの強い絆なのです。そのことを覚えつつ、新しい一週間の歩みを初めてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年2月12日 顕現節第6主日礼拝説教)